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アレルギーと依存症と抗体と

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 あすなも、上杉に彼女ができたら、きっと祝福してくれて、同じように距離を置くことになるだろうと思っていた。それが「友達以上恋人未満」のお約束であり、決まりごとのように思えたからだ。
 だが、今少しその関係が崩れかけている。力のバランスが崩れていると言ってもいいかも知れない。
 それは、あすなの「男性依存症」というものが、シンデレラコンプレックスによるもので、さらに、秘密主義があらわになったからだった。
 秘密主義というのは、あすなには、子供のことから潜在的なものがあった。それは、シンデレラコンプレックスの潜在が「男性依存症」であったことを示すかのようなものだった。
 あすなが子供の頃に苛められていたのはさっき述べたが、あすなはそのことを関係者以外には知られたくないと思っていた。
 自分の親をはじめとして、先生や他の父兄も同じである。つまりは、大人には知られたくないと思っていたのだ。
 子供の間ではあすなは完全に一人浮いてしまっているので、全員が敵みたいなものである。大人まで敵に回してしまうと、あすなはどこにも自分の身の置き場を失ってしまう。もし、苛められていることが大人に露呈すると、そこで騒ぎになるはずだ。
 あすなを擁護する人もいるだろうが、大多数は子供の言うことに耳を傾けるであろう。そうなると、まわり全員のこともが敵になっているあすなのことが、まともな目で捉えた話が伝わるはずもない。あすな一人が悪者になってしまい、孤立無援となるだろう。
 あすなは、その頃から、
「白馬に乗った王子様」
 が現れて、自分を助けてくれるものだと思い込んでいた。
 それが「男性依存症」だと思っていた上杉だったが、一歩進んで、シンデレラコンプレックスだとは思いもしなかった。もちろん、そんな言葉は知らないが、「男性依存症」を苛められているあすなの心のよりどころだとすれば、それを悪いことだとして、誰も責めることはできないに違いない。
 しかし、シンデレラコンプレックスというのは、相手に対しての完全な依存である。そこに自分の意志は存在しない。下手をすると、相手が自分を蹂躙しても、気づかないほど苛められたことでの傷が深ければ、相手がどんな相手であっても、
「白馬に乗った王子様」
 にしか見えないだろう。
 それほどあすなへの苛めは過酷なもので、
――あすなの気持ちになって考えよう――
 と思ったとしても、その心の傷の深さまでは分かるはずもなかった。
 そのことは上杉も重々承知しているはずなのに、それ以上のことができない自分に歯がゆさを感じ、何よりも、ある一定の線から先に進むことができないもどかしさが襲ってくるのが溜まらなかったのだ。
 しかし、子供の頃の苛めは、ある日突然終わってしまうことがある。
 苛める相手がいつも同じで飽きてしまったのか、それとも別のターゲットが見つかったのか、いじめっ子というのは、実にいい加減なものだ。何しろ苛められる側の気持ちなど、これっぽちも考えていないのだから。
 苛めが終わると、今度は自分を苛めていた人たちの方から話しかけてくるようになる。本来なら、
――何様のつもりで話しかけてくるのよ――
 と言いたかったが、相手が恐縮しながら話しかけてきて、
「今までごめんなさい」
 と、ハッキリ言葉で詫びを入れられると、何も言えなくなってしまう。
「いえ、いいのよ。これからは仲良くしていきましょうね」
 というしかないではないか。
 本当であれば、
――先手を打たれた――
 と言ってもいいのだろうが、表の顔は、詫びを入れ、許しを乞うてきた相手をむげにすることを許さない。あすなの中に、
――できれば和解できればいいんだけど――
 という思いも少しはあったのだろう。
 それよりもあすなは、苛めに加わっていなかった連中の方が憎らしい。ハッキリと何かをしたというわけではないのだから、謝る必要もない。逆に自分を苛めていた人たちと和解し、仲良くなることで、傍観していた他の連中を孤立化させてやりたいという気持ちもあった。
 傍観していた連中は、連中自体に繋がりは一切ない。一人一人が独立していることは、自分が苛められていた時に感じた視線を思い出せば分かることだった。
 苛められている時は、そんなことは分からない。ただ、
――どうしてそんな冷たい目で見ることができるの?
 と感じ、さらに腹が立ったのは、その目が完全に上から目線だったことだ。
「あなたは、私と違って、苛められる運命にあるのよ」
 と言わんばかりの視線を浴びせているくせに、自分たちは蚊帳の外にいて、苛めには関係ないと感じているのが、悔しかったのだ。
 中学時代には、いくつかの集団があって、それに属していない人が、いつも冷めた目をしていた。普段は目立つこともなく、気配を消しているようだったが、自分よりも惨めな人を見つけた時には、待ってましたとばかりに、上から目線の冷めた目を浴びせることで、一体何をしたいというのだろう?
 そんなことで自分を納得させられるわけでもないし、できるとすれば、自分に被害が及ばないようにするにはどうすればいいかということを考えるだけだ。
 あすなは、もし自分が彼女たちのようなその他大勢だったらどうなっていただろうかと考えたが、結果は同じだった。結局、誰か苛められている人がいれば、その人を上から目線で見ることで、
――自分はその人よりも上なんだ――
 という思いを抱いて、優越感に浸りたいと思うに違いないと感じていた。
 その時、目の前で苛められている人の視線は気にはならない。なぜなら、相手を同じ人間だとは思っていないからだ。
 まるで虫けらのような目で見ることで、自分の感情の移入をシャットアウトして、余計な考えや先入観を植え付けないことで、優越感に浸るのだ。
 今から思えば、
――冷静に考えれば、そんなことはできないはずだ――
 と思うに違いないが、思ったよりも冷静である。
 いや、これ以上ないというほど冷静なのかも知れない。冷静で見つめることで、冷酷な自分が目を覚ます。傍観するには、自分の中の冷酷な部分を呼び起こさない限りできないことなのだ。
 もし、自分が彼女たちの立場なら、同じことをしたに違いないと思っているにも関わらず、苛められていた時期のことを思い出すと、一番憎いのは苛めていた連中ではなく、冷徹な視線を、上から目線で浴びせたその他大勢の傍観者たちに他ならない。
 苛められていた時期があったのは、自分にとっての汚点であることには違いない。小学生の頃の一定期間、自分の意志を持てなかったのは事実だからだ。
 いつも、
「この角を曲がって、いじめっ子がいたらどうしよう?」
 という思いであったり、そばに近づくと何をされるか分からないという思いを常に抱いていたことで、何かされた時のその後どうしようかということを考えることで頭がいっぱいだった。
――もっと他に考えることがあっただろうに――
 と思うと、貴重な時間を無駄にしたという意識が強く残ってしまった。
 あすながどうして男性依存に近づいたのかというと、自分を苛めていた数人の女の子が謝ってきた時、その中の一人の女の子と仲良くなった。