アレルギーと依存症と抗体と
あすなの様子が変わってきたことで、気持ち悪がっている人も多かった。
それは女性の方に多く、男性はそれほどでもなかった。
女性の中には、嫉妬心のようなものがあったのかも知れない。自分がなかなか男性にアプローチできないと思っている人にとっては、あすなのような依存症的な態度に出られると、苦労もしていないのに、男からちやほやされるイメージを持ってしまうからだった。
確かにシンデレラのお話は、王子様から求婚される場面など、女性なら一度は夢見るシチュエーションであり、しかも、今まで自分を虐げてきた恨み重なる人たちをやり込めての幸せなので、これほど感無量なことはない。想像しただけで、幸せな気分になれるというものだ。
――私にもそんな幸運が待っているんだ――
と、自分の美しさに磨きをかけられる時期であれば、そう思っても仕方がない。
幸運を待ちわびるのは、決して悪いことではない。ただ、そこに自分の努力がどれほど含まれているかということである。
シンデレラコンプレックスには、自分の努力は明記されていない。むしろ、全面的に依存しているのだから、努力などしているわけもない。
努力もせずに、ただ「白馬の王子」の出現を待ちわびている。そんな女性を見て、同性とすれば、気持ち悪いという気持ちと、
――自分にはできない――
と、シンデレラコンプレックスを抱く女性の美しさは、自分で思うだけのものを持っているのだ。
ただ、それは持って生まれたものであって、自分が磨きをかけたものではない。それが余計に嫉妬と憎しみを呼ぶのだ。
今まであすなを目立たない存在だと思っていた女性も、彼女がシンデレラコンプレックスだと思うと、その時点から、あすなの美しさを感じさせられてしまう。それは女性に限ったことではなく男性にも同じ感覚を持たせた。
男性は女性のように嫉妬心も憎しみもないので、表面上の美しさだけで相手を見る。あすなに心を奪われる男性も現れるのではないだろうか。客観的に見ると、何ともやりきれない気持ちである。
あすなは、自分でシンデレラコンプレックスだという意識はないが、男性依存症だとは感じていた。ただ、信じられる男性がいるかいないかというのは別問題で、まずは依存できる相手がいるかどうか、考えていた。
そういう意味では、上杉には依存できなかった。依存するには、上杉が真っすぐな人間過ぎた。だからこそ、
「友達以上恋人未満」
などという発想が生まれてくるわけで、どちらかというと、恋人や友達というよりも、
「お兄さん」
という雰囲気なのかも知れない。
――お兄さんじゃあ、恋愛感情なんて持ってはいけないわね――
と感じていたが、恋愛感情と男性依存症という意識とは別物であることをあすなは理解していなかった。
あすなが好きになる男性の第一条件は、
「依存することができる相手かどうか」
であった。
子供の頃や思春期であれば、
「甘えさせてくれる人」
というのが定義になるのだろうが、大人になってくると、もう少し切実な思いが込み上げてくるものだと思っていた。
しかし、大学生になっても、甘えさせてくれる人というイメージが頭から離れない。それ以外の依存症のイメージが湧いてこないのだ。
それはきっと本当に好きになった人が現れていないからに違いない。
実際にあすなには、今まで本当に好きになったという思いを抱いた人は誰もいなかった。しいていえば上杉なのだろうが、最初から自分で線を引いてしまっているので、甘えることはおろか、好きになるなど、考えてはいけないことだと思い込んでいたのだった。
そんな感情は相手にも伝わるもので、特に相手は上杉だ。絶えずあすなを見続けている上杉にあすなのそんな気持ちが分からないはずはない。どうしても二人の間はぎこちなくなり、必要以上に教理が狭まることはないのだ。
上杉は、時々あすなを見ていると怖いと思うことがあった。
――俺の知らないところであすなが行動し始めたら、俺はどうすればいいんだ?
という思いだった。
あすなだって、一人の女性であり、一人の人間である。いくら大切に思っているからと言って、自分がずっと独占することはできない。それも分かっている。
――相手があすなでなければ、俺はこんな理不尽な関係は最初から結ばない――
どんなに尽くしても、相手のことを考えても、恋人未満なのだ。こんな関係は男女間としては、不健全と言えるのではないだろうか。恋愛するしないという意味では中途半端なくせに、まだ恋愛にまで至っていないという矛盾した感情は、上杉をぎこちなくさせているのだ。
「それなのに」
上杉は独り言ちた。
あすなが男性依存症だということは、大学生の今となっては、他の人から見ても一目瞭然かも知れない。しかし、子供の頃から思春期にかけて、あすなのような女の子の存在は、まわりから見ると奇妙であり、理解の範囲を超えていたに違いない。
子供や思春期の考え方では理解できない相手に、いつまでもかまっているほど、人間がっできていない。すぐに自分の友達や気になる異性としての対象から外れてしまっていただろう。
そういえば、あすなは小学生時代には、よく友達から苛められていた。苛めている連中にも、
「どうしてあすなを苛めるのか分からない」
という思いがあったのかも知れない。
「とにかく、苛めたいから苛める」
という理不尽な理由だったのだろうが、子供の苛めには、理由のない本能から来る感情が苛めに繋がることも往々にしてあったりする。あすなは、そんな連中の標的だったのだろう。
苛められているあすなを助けようとするのは、上杉だけだった。他の人は、苛められているのをただじっと見ているだけで、その視線は実に冷たいものだった。その冷たさは、苛めている人たちの目よりもさらに冷酷な視線であり、苛められているあすなは、いじめっ子たち以外にも自分を見ているその目も敵であったに違いない。まさしく「四面楚歌」とはこのことであろう。
あすなは、そんな過去を持っていたが、大学時代の友達の中に、あすなを見ていてその頃のことを想像できる人は誰もいない。ただ、あすなが男性依存症になったのは、その苛めが影響で、
「誰か自分を守ってくれる強い男性が現れる」
と思っていたからだ。
上杉は、高校生の頃まではそれが自分だと思っていた。高校生になるまでは、あすなのことを分かってあげられるのは自分だけだということを自覚していたが、本当に守ってあげられる自信がなかった。
大学に進学してもそれは同じことで、
「きっとこれからも同じ思いを抱いたまま生きていくことになるんだろうな」
と感じていた。
それは、あすなか自分のどちらかが結婚した時にどうなるかということを考えるようになったからだ。どちらかが結婚するまでというよりも、どちらかに彼氏、彼女ができた場合でも、訪れる関門である。
上杉は、あすなに彼氏ができたとすれば、二人から距離を置くことになると思っている。もし、その相手が本当にあすなを守ってあげられる相手かどうか、見極めたいのは山々だったが、あすなが選んだ相手だったら、自分がそれ以上踏み込んではいけないと思ったのだ。
作品名:アレルギーと依存症と抗体と 作家名:森本晃次