アレルギーと依存症と抗体と
店から出ると、星空が綺麗だった。
「都会の空がこんなにも綺麗だなんて」
上杉が空を見ているのを横で見ていた父親が、先に口に出した。
上杉も同じことを考えていたが、口に出すことをしなかったのは、先に父親に喋らせようと思ったからだった。
「そうだね」
上杉は相槌を打ったが、先に空から目を離し、歩き始めたのは上杉の方だった。
「こっちでいいのかい?」
それを聞いた父親も、慌てて空から目を切って、前を向き直り、
「ああ、そっちでいいんだ」
と上杉についていった。
上杉は、今日だけは自分が完全に主導権を握りたかった。そのためには、普段はしないようなことを、いきなりすることで、相手の出鼻をくじくようなやり方をしていた。もちろん、今までこんなことをしたことはなかった。それを十数年ぶりに遭った父親に対してしなければいけないことに、上杉自身、自虐の念があったのかも知れない。
前を見て歩いていると、普段はもう少し人がいるような気がしていたはずの、普段から通っているこの道が、まるで初めて来たような気がしてきたから不思議だった。
――あの角を曲がると、確か公園があったよな――
と思いながら歩いた。
角に差し掛かって曲がりかけると、目の前に公園が見えてきた。その公園には、さすが夜九時を過ぎたこの時間には誰もいなかった。街灯に照らされた公園は、こじんまりとしていて、まるでそこだけが別世界のように浮かび上がっていた。
――そういえば、高校の頃、予備校の帰りに、時々家の近くの公園のベンチに座って、少しの間、考え事をしていることもあったよな――
という回想が頭をよぎった。
――表から見ると自分がどんな風に見えていたのだろう?
今歩きながら、公園のベンチを見ていると一人の少年が頭を抱えるようにして顔を上げることができずに佇んでいるのが想像できた。その姿は荒んでいて、どうにも情けなく思えた。
――十数年前のお父さんも離婚を考えた時、あんな風に頭を抱えていたのかも知れないな――
と思うと、ベンチに座っている少年が、スーツを着ているが、ネクタイもワイシャツもだらしなくヨレヨレになって、背中をこれでもかというほど丸めて佇んでいるサラリーマンの姿が見えていた。
――お父さん――
まさか、自分の過去を思い出していると、そこに父親の一番見たくないと思っていた、見たこともない姿がフラッシュバックされた状態に見えてくるなど、想像できることではなかった。
だが、よく見ると、父親ではないような気もしてきた。
――まさか、自分の未来の姿?
最初に父親だと思ったのがなぜなのか分からなかったが、自分の未来の姿が見えたと思う方が、自然な気がした。その姿に父親を見たのだとすれば、血の繋がりを感じたからだろう。
「そんなバカな」
上杉はすぐに打ち消した。
父親との血の繋がりを一番否定したいと思って、ずっと今まで生きてきたのだ。
「俺は、自分の結婚した相手に、母親と同じ思いをさせたくない」
と思った。
上杉は父親を人間として憎むことはどうしてもできなかった。子供の頃にはまったく分からなかったが、母親にあんな顔をさせた父親を漠然と憎んでいた。
しかし、思春期になると、
「浮気ではなく、本気」
と言っていた言葉の意味が、漠然としてだが分かるようになった。
だが、自分には付き合っている人や好きな人がいるのに、他の人に心変わりしてしまう気持ちが分からないと思っていた。そう思おうと努力していたからなのだろうが、心変わりしないことで、自分の中に父と同じ血が流れているということを否定したい気持ちになっていたのだ。
――母親との血の繋がりは決定的なものだとは思うが、父親との血の繋がりは否定したい――
この思いが、矛盾していることは分かっている。分かっていても、貫きたい思いであることも事実だった。
――どっちの優先順位が強いんだ?
と考えてみたが、
――父親との血の繋がりを否定したいのは、母親をあんな目に遭わせたことに起因する――
と考えると、父親への憎しみよりも、母親へのいとおしさが深く感じられる。
――お母さんの気持ちを考えると、俺が支えてあげなければいけないと思うと、どうしても父親との血の繋がりを否定しなければいけなくなる――
要するに、どちらも重要で、切っても切り離せないものなのだ。
「優劣つけがたい」
というのは、まさしくこのことをいうのだろう。
もし、矛盾している思いを無意識に感じたことから、公園のベンチに幻を見たのだとすれば、
――本当に父を許してもいいのだろうか?
という思いが頭をよぎった。
ついこの間までは、父を絶対に許してはいけないと思っていたはずだった。心変わりがあったとすれば、父に遭ってしまったからなのだが、もしこれが偶然であれば、この時に自分を顧みなければいけない何かが存在していたということになる。どうしてあの時上杉は父親の部屋を見てみたいと思ったのか、自分でもハッキリと分からなかった。
「どうしたんだ? そろそろ行くぞ」
公園を眺めていた時間がどれほどのものだったのか分からなかったが、その時の上杉は父親の存在を忘れてしまったかのように、公園の中に集中していた。父親に声を掛けられ、ハッとして我に返ったが、その時に見た公園がまるで箱庭のように見えたのは気のせいだっただろうか。
今にも消え入りそうな街灯が浮き上がらせている公園。大学時代、よくこんな場所に一人でいようと思ったものだ。今考えただけでも、背筋に汗が流れ出るのを感じた。
さっきまで自分が先に立って歩いていたが、今度は父親が先導してくれている。完全に立場が変わってしまったが、公園を気にしたのは、立場の逆転を促すための前兆だったのかも知れないと思うのは、突飛すぎるだろうか。
しかも、さっきまで知っている道をどんどん自分が先導するように歩いていたつもりだったのに、父が前に立った瞬間から、知っているはずの道が、まるで初めてきた場所に思えてきたのだ。
――こんな感覚って――
と、不思議に感じながら、歩いていると、いつの間にか早歩きになっているのに気が付いた。
息が切れてきていて、汗も滲んでいる。まわりを見ると、歩いている人は誰もおらず、その空間を紛れもなく二人だけが支配していた。
それなのに、なかなか次の角まで辿り着かない。父はそれほどストライドが広いわけでもないのに、追いつけないのだ。二人が占領している真っ暗な空間には、父の乾いた革靴の音しかしてこない。上杉も同じように革靴を履いているのに、自分の靴音には気が付いていない。まるで夢を見ているようだ。
「ほら、見えてきた」
余計なことを考えていると、目の前に見えてきたアパートを父は指差した。
まるで昭和の建物を思わせるようなアパートで、集合ポストには、ダイレクトメールの束が溢れているのが目立っていた。
しかも、それは一軒だけではなく、何軒も同じだった。きっと入居者は少ないのかも知れない。
作品名:アレルギーと依存症と抗体と 作家名:森本晃次