アレルギーと依存症と抗体と
「浮気をしたからといって、自分の気持ちにウソをついているとは言えない」
という考え方だ。
それなのに、浮気と本気の違いは、
「遊びか遊びではないか」
という違いに転換できるとすれば、浮気というのは、もっとも許せないものだとして分類されてしまう。
上杉の思いはそこだった。
上杉が父から聞いた、
「浮気ではなく、本気だ」
という言葉が詭弁にしか聞こえないからだ。
浮気であろうが本気であろうが、自分の気持ちにウソをついていないということに変わりはない。父としては、
「遊びではないから、離婚を考えた」
と言いたいのだろう。
もし、そうであるなら、上杉は父親の考えを許すことはできない。
父親の言葉を言いかえれば、
「浮気だろうが本気だろうが、自分の気持ちにウソはない。ただ、俺は遊びとして終わらせたくはない」
という気持ちを前面に押し出しているだけで、母親にプレッシャーを与えているだけではないだろうか。
これを聞いた方とすれば、
「この人の本気という言葉は、相手に戦意喪失させるための起爆剤のようなものだ」
と考えるだろう。
遊びというのは、相手がどう考えていようが、自分は相手に深入りすることはないという意味である。だから、浮気であれば、妻に対して離婚しないように必死に頼み込むはずだ。
それなのに、遊びではないと言った瞬間、自分は相手と相思相愛であるということを宣言したようなもので、現時点では、あなたよりも不倫相手の方に気持ちを奪われているので離婚したいという、実に都合のいい身勝手な話になってしまう。
しかも最初に、
「自分の気持ちにウソはない」
と宣言しているのだ。
ということは相手に最初に宣戦布告しておいて、畳みかけるというやり方だ。考えれば考えるほど、卑怯にしか思えてこない。
父親と話をしていると、虫唾が走りそうになってきた。どの言葉も欺瞞に満ちているように聞こえてきたからだ。
しかし、心のどこかで、
「もうそろそろ許してやってもいいんじゃないか?」
という声が聞こえてきたような気がした。
いくら自分たちを「捨てた」男とは言え、父親であることに違いはないのだ。再会の最初にここまで相手のことをひどく考えてしまえば、その後は、これ以上ひどく考えることもないと、感じていたのも事実である。
「お父さんは、俺たちを捨てたのかい?」
ストレートに聞いてみた。
父親の、
「浮気ではなく、本気だ」
という言葉は、相手に戦意喪失させるには最高の言葉だったのだろうが、納得がいかなければ最後まで戦うと思っている人には効かないだろう。そういう意味では父親の言葉はそこから重みを失った。しかし子供に対しては十分に効果はあった。
ストレートな聞き方は、
「もし、親父に遭うことがあったら、俺もしてみたい」
と思ったことであって、さすがにあれから十何年も経っているのだ。いきなりストレートに聞かれれば、どう答えていいのか迷うだろう。
「捨てたわけではない」
これが一番考えられる答えだった。
どこか曖昧な言い方は、表面上は捨てたと思われても仕方がないが、心の中では、
「捨てたくて捨てたんじゃない」
と思っているはずだ。
この言い方をすると、最終的に捨てたことになってしまうので、言葉にはできないだろう。
父親は少し考えて、
「捨てたんだろうな」
と弱弱しく言った。
これはこれで最悪な回答だった。
捨てたという事実に対して、もはや他人事。母と別れる時に、
「浮気ではなく、本気だ」
と言った、あの時の本気という言葉はどこに行ってしまったのか、すっかり、怯えているように見えていた。
「自分の気持ちにウソはない」
と言っていた言葉自体がウソに感じられた。
だが、父親が昔ほどではないにしても、もう少し自信に満ち溢れていた李、悪びれた様子がなかったりすると、まず許してあげようとは思いもしなかっただろう。今の父親を見ていると、気の毒に感じられた。
それは、物乞いをしているホームレスを見ているようで、普段なら、
――情けない――
と思うような相手に、無性に同情したくなることがあるが、今まさにそんな気分だったのだ。
「お父さんは、今誰と住んでいるんだい?」
またしても話を逸らした。
上杉は、質問攻めにして、答えたことに対して、自分がどう考えているか、言わないつもりだった。攻撃される方も辛いだろうが、攻撃する方も、結構辛いものがあった。
「お父さんは一人暮らしなんだ」
分かっていたような気がする。
相手がどんな人であれ、一緒に住んでいる人がいれば、もう少し覇気があってもいいはずだ。だからこそ、
「自分たちを捨てたのか?」
という質問に対し、最悪に思えていた、
「捨てたんだろうな」
という、憎まれても仕方のないような回答しかできなかったのだろう。
そんな父を見ていると、
――しょうがない。許してやろう――
という気持ちが芽生えてきた。
しかし、それは同情によるものではなかった。
――こんな情けないおやじなら、今の俺にだっていろいろ命令できるんじゃないか?
と、何かを企んでいる気持ちが見え隠れしていた。
具体的にどうしたいというものはなかったが、許す気持ちになったことが、一つ大人に近づいたのだと思うと、まんざらでもなかった。
気持ちの中に、相手に対しての優越感が、そのほとんどを占めているということに気づいてはいたが、
――許すんだから、それくらいは代償として支払ってもらわなければいけないよな――
と思い、ほくそ笑んでいた。
「お父さんの住んでいる家、見せてもらいたいな」
いきなりの上杉の「注文」だった。
「ああ、いいよ。狭いけどな」
そういうと、父は席を立ち、支払いを済ませると、表に出た。
最初に言っていた
「募る話」
というのは、本当に薄っぺらいものだった。
ダラダラと話が進むだけで、集中して聞いているわけではないからだ。そうしても他人事に聞こえてしまい、話している本人が自己満足しているだけにしか思えなかった。
その中で父は、
「本気になった」
という女と離婚してから一年も経たないうちに別れたという。
まずその時点ですでに集中して話を聞くことができなかったわけで、話の内容が他人事に思えてしまったのも仕方のないことだっただろう。
「捨てたんだろな」
という言葉も、せっかく離婚してまで一緒になった相手と別れてしまったことで、すべてが無駄になってしまったことへの後悔の念があったのではないかと思えたことから、半分自虐的な言い方になってしまったとも考えられた。
そんなことを考えながら、表に出ると、入ってからすぐに出てきたような気がするくらいだった。実際の時間としては、二時間以上は店の中にいたのに、あっという間だったような気がするのは、それだけ話の内容が無駄話だったような気がするからなのか、それとも、女将さんがいたとはいえ、二人きりの世界がまるで別世界のように感じられたからなのかのどちらかだとは思うが、正直どちらなのか、判断がつかなかった。
――両方なのかも知れないな――
と本音として感じていたのかも知れない。
作品名:アレルギーと依存症と抗体と 作家名:森本晃次