アレルギーと依存症と抗体と
「今のままの敦子では、彼女としては物足りないけど、これから自分の手で自分色に染めることができると思うと、男冥利に尽きると思わないか?」
「そう思っているのはお前だけなんじゃないか?」
「いやいや、そんなことはない。男というのは、自分の手で女を変えていきたいと思うものだからな」
「そんなもんかな?」
敦子の知らないところでそんな会話がなされていた。
もちろん、会話をしている二人も、彼女のまわりにいる人たちも彼女が父親に興味を持ったことを知っていても、そのことと敦子の雰囲気が変わったこととを結びつけて考える人はいなかった。
当の敦子は、自分が変わってしまったことをそれほど大げさには思っていない。
元々、
「大人の色香で男性を悩殺している」
と言われることに違和感を感じていた。
敦子は、何事も自分発信ではないと我慢できないところがあったが、その原点は、
「新しいものを作り出すことが大好きだ」
そして、
「自分から、何かを変えることも同じくらい大好きだ」
という発想から来ていた。
女を磨くために努力を怠ることはなかったが、それでも、新しいものを自分が作り出したというわけではない。
努力によって変えられるものには限界がある。それは中学時代の勉強で分かったことだった。いくら頑張って勉強しても、いつも学年で三番以内に入ることは無理だった。
一番、二番はいつも決まっていた。二番の人も同じことを考えていたことだろう。どんなに頑張っても上に行くことができないのだから、やりきれない気持ちにもなっていたはずだ。
かと言って、一番の人はいつも安心していたわけではない。下から追いかけるよりも、上にいて追いかけられる方が数倍プレッシャーがかかるというものだからだ。そう思うと、上位三人というのは、誰も安心している人なんかいない。誰もがプレッシャーに押しつぶされそうになっていて、少しでも相手よりも努力しないと、今の地位も危なくなる。
「まるで、川で溺れたカエルのように、息継ぎができるだけで、助かる見込みもない無駄な努力を続けているようだ」
というイメージを抱いていた。
だが、
――自分はいつも一人なんだ――
と考えていたことで、プレッシャーがプレッシャーを呼び、抜けられなくなってしまっていた。
高校に入ると、友達もできた。あまり成績にこだわることもなくなると、かなり気が楽になった。高校に入学すれば、中学の時のように、いろいろなレベルの人がいるわけではない。高校受験の際に、自分の実力に合わせて学校を決めたので、まわりは、自分と同じレベルである。そのことにいち早く気づいたことで、気が楽になった。成績は中の上、それでいいのではないか。
その頃から、思春期の発育が目立つようになった。晩生だったのか、高校生になってから急に大人びてきたのだ。中学時代までは、幼さの残る女の子だったのが、急速に大人のオンナに変わっていった。
その時に知り合った男の影響で、それまで知らなかった大人の世界を知ってしまうと、自分に大人の世界を教えてくれたその男を簡単に捨て、他の男性と付き合い始めた。
最初に付き合ったその男としては、
「何を言っても言い訳になるかも知れないが、あの女を引きつけておくことのできる男はそうはいないだろうな」
と言いたかっただろう。
実際に、男と付き合い始めても、すぐに別れ、
「付き合えば別れ、付き合えば別れ」
という状態を繰り返していた。
まさしくそれは、「状態」である。その時の敦子に感情などあったのかどうか、まわりから見ていて感情など感じられない。実際に本人にすら分からなかった。
いや、本人にも分からないことを、まわりが分かるはずなどないというのが、その「状態」だったのだろう。
それから長くても三か月で男と別れてきた敦子だったが、父親は彼女がそんな女性だと本当は知っていた。知っていて近寄ってきた彼女を避ける気にはならなかった。
――弄ばれるかも知れない――
そんな思いは確かにあった。
敦子がこんな風になってしまったのは、高校時代の勉強で、まわりについていけなかったからに他ならない。そのことを一番自分が分かっていたのだが、気が楽になるためには、誰かの助けが必要だった。
そんな相手を探していたために、男性をとっかえひっかえしていた。捨てられた男たちを可哀そうだと思うのは、早成な判断だと言える。
敦子が付き合った男性は、皆敦子に近づいてきたのだ。敦子が決して誘惑したわけではない。それに敦子に捨てられたように見えている男性も、自ら身を引いたのが本音である。
しかし、それを自らいうのは、情けないものだ。だから最初に、
「捨てられた」
あるいは、
「誘惑された」
ということにしてしまえば、男の側に傷がつくことはない。
「気の毒な人たち」
として同情されると思ったのだろう。
しかし、まわりの判断は違っていた。
「魔性の女に引っかかってしまった情けない男たち」
というレッテルが貼られる。
同情というものは、他人から見ると、気の毒には違いないが、それと同じくらいに情けないとしてしか見ていないということである。自分を客観的に見ることのできない人は、自分を悲劇のヒーローにしてしまい、まわりから同情される自分を想像し、それを客観的に見ている証拠だと思い込んでしまう。それは大きな勘違いないのだ。
敦子は決して魔性の女などではない。そのことを分かっているから、父親は敦子が近づいてきても、遠ざけようとはしなかったが、その代わり、まわりに自分が誘惑されているようには見せなかった。
なぜなら、今まで敦子がまわりに見せた「誘惑」が、自分から近づいたことによるものではないからだ。男たちの方から近づいてきて、いつの間にか、敦子に誘惑されたかのような感情に男たちはなっていた。
「敦子と一緒にいると気が楽なんだよ」
「それはどういうことだい?」
「そばにいるだけで、ホッとする気分にさせてもらって、その分、こっちが何かをしてあげなければいけないという気持ちになったんだ。別に誘惑されたりしたわけではないんだ」
敦子と別れてからしばらくして、冷静になった男たちは、皆敦子に対してそんな思い出を持つようだった。もちろん別れてからすぐは、感情が逆撫でされたような気がしてきたので、自分が捨てられた気分になっていたが、実際にはそうではなかった。
「敦子という女性、勘違いされやすいんだ」
そうしみじみと語るのが印象的だった。
そんな話も父親は聞いていた。客観的にまわりから見ているのと、別れた当事者に聞く話とでここまで違っていると、父親の方も、敦子に興味を持つようになっていた。お互いに興味を感じた中で、初めて自分から男性に近づいた敦子は、父親に対して、
――他の男性とは違う――
という何かを感じたに違いない。
敦子はシンデレラコンプレックスとは逆だった。決して人に依存するわけではなく、白馬の王子様の登場を願っているわけでもない。それだけに、自分から積極的にならなくても、そのオーラが相手に伝わるのか、敦子に引き付けられる男性が増えていたのだ。
そのせいでまわりからは、
「肉食系」
作品名:アレルギーと依存症と抗体と 作家名:森本晃次