アレルギーと依存症と抗体と
「お母さん、いつもありがとう」
心の中でいつもそう呟いていた。
声に出すことはなかったのが、そんな時に見せる笑顔が母親にとっても癒しであり、安心感を与えられた。
橋の上から後ろを見た時に感じた少年、それは絵を描いていた少年ではなかった。自分が小学生に戻ってしまったことで、そこにいるのは少年だと思い込んだのだが、もし自分が今の自分であることを夢の中で理解していれば、後ろに立っているのが上杉であることは容易に分かるはずだった。
上杉は、時々母親と同じ夢を見ていた。もちろん、お互いにそんなことは分からない。あくまでも自分の夢に出てきている一人のキャラクターとしてしか思っていない。だが、上杉の見ている夢は自分が小学生になっているのに、目の前で立ち往生しているのが、まさか自分の母親だとは思えなかった。何しろ、相手も小学生の女の子であり、上杉はむしろ目の前にいる女の子を、あすなだと思っていたようだ。
夢を見ながら漠然と、
――あすなも同じ夢を見ているんだろうな――
と思ったが、それを確かめることはできなかった。
なぜなら、上杉は目が覚めた時には見ていた夢も、感じたこともすっかり忘れてしまっていたからだ。
ただ、夢の内容を覚えていることも稀にあった。しかし、何を思ったかまでは思い出すことはできなかった。
シンデレラコンプレックス
あすなは、上杉の母親のことをずっと意識していた。そのことを上杉は知っていたが、なぜあすなが自分の母親を意識するようになったのかまでは分からなかった。
理由は上杉自身にあった。
「友達以上恋人未満」
と思ってきた二人だったが、この思いが強かったのは、上杉の方だった。
いつもあすなのことを気にしているつもりだったが、どうしても中途半端な気持ちで見てしまうため、あすな自身の目がどこを向いていて、焦点をどこに合わせているかということに気づいていなかった。
あすなの目が自分の母親に向いているなど、上杉には想像できるものではなく、上杉自身、あすなの中に自分の母親を見ていて、自分の母親の中に、あすなを見ていることに気づいていなかった。
あすなは、大学に入って油絵を描くようになった。秘密主義のあすなにとって、最大の秘密であり、油絵を描いていることは、上杉も知らなかった。
ここでも、
「友達以上恋人未満」
という中途半端な関係が、さらにあすなの秘密を深めていく。
――あすなのことが分からない――
と、何度感じたことだろう。
しかし、それでもいいと思っていた。
完全に分かってしまうのが怖いという気持ちが上杉にはあった。そのことを一番感じたのは、キャンプに行ってからハチに刺されて帰ってきた時からだった。
――明らかにあの時からあすなは変わった――
ただ、何となく懐かしいと思えるような人に変わっていた。
――近づきにくい――
という思いがあったのも事実だが、それは、あすなが自分の知っている人に似てきたことが怖くなったからだ、
しかも、最初は誰に似てきたのか分からなかった、ただ懐かしさを感じるというだけで、似ているという感覚は、
――錯覚だと思いたい――
という気持ちにも繋がっていた。
ただ、決定的な違いもあった。それがあすなの「秘密主義」で、肝心なことはどんなことであっても、最初は秘密にしようと考える。
秘密にしようと考えるのは最初だけで、すぐにまわりに看過されてしまうのだが、看過されたことは、まわりには、そのことをあすなが秘密にしようという意識があったことを知られることはなかった。知っているのは上杉だけだと思っていた。
だが、そのことを知っている人がもう一人いた。
それが上杉の母親だった。
上杉の母親は、あすなのことを二人が子供の頃から気に入っていた。
「あなたのお嫁さんになってくれればいいのにね」
とよく言っていたくらいだった。
ただ、あすなのことを気に入っていたのは両親ともではなかった。なぜか父親はあすなといつも距離を置いていた。子供の頃は、
「あの娘は、大人になったら綺麗になるんだろうな」
と漠然と母親に言っていたのを、母親は忘れることはなかった。
その時、父親がどうしてそんなことを言ったのか、父親自身も分からない。なぜなら、母親はずっと印象深く覚えていたにも関わらず、言った本人である父親は、自分が言った言葉をすぐに忘れてしまっていた。
しかも、それは普段忘れるよりも短い期間であった。無理にでも忘れようとした証拠である。つまりは、自分で言った言葉が本心であることに気が付いて怖くなったのかも知れない。自分で言った言葉の責任を負う事ができないと思ったのだろう。その思いが嵩じてあすなと距離を持つようになった。母親には漠然としてしかその気持ちは分からなかったが、もしその意識をハッキリと知ることができる人がいるとすれば、それは上杉以外にはいないだろう。
その頃から父親には異常性欲があった。若い娘を気に入ってしまうと、何とか口説きたくなる性格のようで、そのことを上杉は分かっていたのだが、理解はしていなかった
世の中には、理解して分かることもあるが、この時のように分かっているのに理解できないこともあるのだ。
ただ、分かっていると言っても漠然として感じているという程度のことなので、厳密に分かっているというわけではないのだ。
父親には、ヒーローに憧れる傾向があった。
父親の育った時代は、特撮ヒーローものの元祖が流行った頃で、番組を見ていないと、次の日学校で皆の話についていけなかったりする。
友達の間では目立つ方だった。いつもヒーローは自分の役だった。自分と同じくらいの男の子や女の子を助けて、有頂天になっている。
――ヒーローだって、目立ちたいんだ――
ヒーローは負けることはない。絶対的な強さを持っていると信じていた父親は、ヒーローも自分と同じように有頂天になっていると思っていた。
テレビでは、子供たちを助けた後、何事もなかったかのように去っていくが、子供心に、
「恰好いいけど、テレビに映らないところで、いい思いをしているんだ」
と、ヒーローに抱いてはいけない思いを抱いてしまっていた。
それは、自分をヒーローに重ね合わせて見るからだった。
――俺だったら、格好つけて去っていくだけでは我慢できない――
と思った。
だが、ヒーローは恰好いいのだ。自分の妄想をテレビの中のヒーローがしていれば、幻滅するに違いない。そんな矛盾を抱えたまま、それでもヒーローに憧れた。友達と遊んでいても、やはり自分がヒーローの役をやっていた。考えてみれば、四、五人の友達がいるのに、誰もヒーローをやりたがらない。なぜだか分からなかった。
そんな時、一人の男の子が、
「俺、由美子ちゃんが好きなんだ」
と告白してきたことがあった。
由美子ちゃんというのは、自分たちグループの中で、一番背が高く、落ち着いているように見えた。父はその女の子を気にしていないと思っていた。なぜなら、自分が好きなのは、笑顔の可愛い女の子だったからだ。
作品名:アレルギーと依存症と抗体と 作家名:森本晃次