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アレルギーと依存症と抗体と

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 母親とあすなの似たところを考えた時、まず浮かんできたのはシンデレラコンプレックスのイメージだった。母親にも同じようなシンデレラコンプレックスがあるようにはどうしても思えない。息子としての贔屓目もあるからなのかも知れないが、それよりも、母親の中にあるシンデレラコンプレックスを認めるということは、再婚しようとしている人に白馬の王子様を見たということになる。
――そんなバカな――
 という思いがあった。
 母親が感じたのが、彼に孤立を感じたからだという具体的なところまでは分からなかったが、母親が店長を見る目に妄想が浮かんでいたのは確かだった。それをシンデレラコンプレックスと見間違えたのだとすれば、上杉の考えも浅はかである。
 確かに、あの時の母親の目は、
「心ここにあらず」
 というイメージで、何かを妄想していたのだが、それがまったくの架空への想像なのか、母親が本当に感じていたような過去の思い出と現実を重ね合わせたために抱いた妄想なのかの違いは分かりずらいだろう。
 しかし、妄想というものに、過去に遡る記憶に本当に制限はないのかと上杉は考えていた。
 母親がどうして店長を好きになったのか、その理由が小学生の頃に感じた河川敷の少年と頭の中で重なってしまったことが一つの引き金になったということを、母親自身が話してくれた。
「お母さんは、お前に分かってほしいとまでは思っていないけど、お母さんのような発想をしたり、妄想を抱いて、そこから誰かを好きになるということだってありうるということをお前に理解してほしいと思っているんだよ」
 と言っていた。
 店長との仲については、どうしても許すという心境にはなれない。別に反対だというわけではないのだが、手放しに喜んでみたり、笑顔で賛成することはできないということだった。
 それは母親にも分かっていることだろう。
「お母さん、気持ちは分かります。僕もお母さんの気持ちを分かりたいという気持ちが強いこともあって、大学では心理学を研究したりしている。学問と本当の心理が一致するとか思えないけど、参考にはなるだろう。人それぞれ、人の数だけ心理の幅は存在する。そう思うと、気持ちを理解し合えるというのは、分かり合うための第一歩なのかも知れないと思うんだ」
――まずは、理解することで、そのあと分かり合う――
 言葉は似ていても、段階を踏む中で順序がある。母親との話の中で上杉はこのことを理解した気がした。それからしばらく心理学の本を読んでいるうちに上杉は、自分の考えていた理論にピッタリ嵌るような、そんな本を見つけた。
「本当に、俺の発想と似た学説があるんだ」
 学説としては弱いもので、この本を描いた研究者の著書はこれだけだった。
 だが、上杉はこの先生に興味を持った。大学の心理学の先生に話を聞いてみたが、この作者のことを知っている人は誰もいなかった。
 本も莫大な数の中の一冊というだけで、完全に埋もれているものだった。
 しかし、その学説は比較的最近に書かれたもので、埋もれるには少し早い気もした。
――一体どんな先生なんだろう?
 上杉は考えていた。
 その作家の名前は忽那哲司という名前だった。その人の著した本は、奇妙な本だった。心理学の本なのに、まるで絵画や芸術の本を読んでいるような錯覚を覚えた。学説の発想も絵を描いているかのようなイメージで、引き込まれるのはどうしてなのか、分からなかった。
 絵を描いている場面はいつも同じ場所で同じ時間、場所は河川敷で、時間は夕方だった。ハッキリとは明記されていないが、夕凪を意識させる。目の前には工場の煙突が絶えず黒鉛を吐いていて、目の前がキャンバスである時もあれば、スケッチブックであることもある。
 キャンバスの時は手に持たれているのは筆であったり、こてであったり、スケッチブックの時は鉛筆だった。
 油絵の時と、デッサン画の時があるということである。
 教授の顔は裏に写真入りで載っていた。白髪に髭を蓄えていて、白衣を着て笑っている様子は、明らかに老人であった。
 上杉の母親が河川敷で絵を描いている少年と出会っていたなど、上杉は知る由もなかった。教授が老人であるのが分かると、その時の少年ではないのは明らかであるが、教授が老人であることに何となく違和感があった上杉だった。
 母親が出会った少年は、実は亡くなっていたのだ。母親もそのことは知っていた。少年の命が短いということを本人が知っていたのかも知れないという思いは、そのままずっと母親の気持ちの中にあった。
 もちろん、ウワサで聞いただけのことだったので、必要以上に気にしてはいけないと思ってはいたが、それよりも気になったのは、少年がもうこの世にはいないという話を聞かされた時が、母親が訪れた河川敷で見た光景が、知っている光景とは違っていたのを意識したすぐあとだったことだ。
――私がここに来たのは、何かの虫の知らせだったのかも知れないわ――
 と感じた。
 その時から、母親は自分がシンデレラコンプレックスに掛かってしまっていたことを気にし始めていた。もちろん、シンデレラコンプレックスなどという言葉を知っているはずもなかったが、絶えず妄想していて、その妄想の先に誰か自分を救いに来てくれる思いがどんどん膨らんでくるのだった。
 父親と結婚した時の母親は、その時、それまでずっと感じていたシンデレラコンプレックスを忘れてしまっていた。別に結婚を焦っていたわけではないのだが、結婚したいから結婚を決めたのか、相手がいい人だから結婚を決めたのか、その時は分かっていたくせに、今では分からなくなっていた。
――それが分からないくらいなんだから、離婚もしょうがないわね――
 離婚の表向きの理由は、夫の不倫だったのだが、もし夫が不倫していなくても、いずれは離婚していたかも知れない。子供がいるので、すぐにとは行かないとしても、息子が高校を卒業した頃には離婚を再度考えていたはずだ。
 今思えば、離婚していた方が可能性が高いような気がする。その方が自分らしいと思うからだ。
――自分らしいってどういうことなんだろう?
 それまでの自分の人生は子供のために頑張ってきた。それは母子家庭の母親なら十人のうち十人がそういうに違いない。
 それを母親は、
――なんかわざとらしい気がするわ――
 と思っていた。
 わざとらしさがそのまま言い訳に繋がるような気がして、ではどう言えばいいのかということが分かるほど、自分の人生を分かっていないような気がした。
 そんな時に思い出すのが、子供の頃に河川敷で出会った少年だった。
 自分は年を取っているのに、少年は子供の頃のままだ。それは記憶の中のことなので当たり前なのだが、記憶の中に出てくるはずの少女は、想像している時の年齢の母親だったのだ。
「まるで夢を見ているようだ」
 それはまさしくの「夢」であり、潜在意識が見せるものだという思いに、信憑性を感じさせる。
 母親は高校を卒業して、すぐに就職したのだが、その時よく夢に見たのは、就職してからかなり経つのに、高校時代の夢を見ることだった。