アレルギーと依存症と抗体と
少年は一時期、親戚をたらい回しにされたらしいが、最終的にはどこも面倒見切れなくなっての施設送り。要するに、親戚皆、両親ほどひどくはなかったが、どこもいっぱいいっぱいで生活していた。とても、扶養家族をもう一人抱え込むなど、できるはずもなかったのだ。
結局、たらい回しにされた末、その後どこにも頼る当てがなくなってしまったことで、施設に連絡を取ったのだ。
親戚の経済状態も調査した上で、少年の施設送りは決まった。いわゆる
「転落人生の典型」
と言えるのではないだろうか。
いや、転落というのはまだ早すぎる。絵を描いていう少年の後姿には、鬼気迫るものもあったが、純粋に絵が好きだというのも垣間見えたからだ。
だが、最初に出会った時の母親には彼のそんな事情など分かるわけもない。ただ、少年が描いている絵を後ろから見ていたが、さらに見ていたくなったのも事実で、河川敷に彼と隣り合わせで座ったのだ。
少年の描いている絵と、目の前で稼働しているリアルな光景を見ていると、どこかが違っている気がした。それは彼が絵が下手だからだというわけではない。むしろ、細部を確認しながら見れば、忠実に描かれているように思えたのだ。
――どうしてなんだろう?
母親はそう思いながら目の前に広がった光景と、スケッチブックに描かれた絵を見比べた。
――なんだ――
自分はその絵を横から見ている。実際の光景は正面からしか見ることができない。目線の違いが、絵とリアルな光景の違いを感じさせたのだと思うと、こんな簡単な錯覚に気づかなかった自分が恥ずかしかった。
そう思って今度は後ろから見てみた。思ったとおり、間違い探しのクイズのように、ほとんど違いはない。
――本当に上手だわ――
と思った。
しかし、上手だと思ってみると、次第にやはり何かが違っているような気がしてきた。それまで目の前でリアルに絵を描いている人を見るのは初めてだったこともあったが、それを差し引いても、彼の絵は上手にしか思えなかった。それなのに何かが違うと思うのはなぜなのだろう?
最初は横から眺めていた彼女が、急に後ろに回って眺めている。そしてその表情には、怪訝な様子が含まれていて、そこまでくれば、少年も自分の絵に対して、何かおかしな雰囲気を感じていることくらい分かるというものだった。
「何か気になることでもあるのかい?」
先に声を掛けてきたのは、少年の方だった。
「あ、いえ、正面の光景と見比べてみて、どこかが違うって思ったんです」
うろたえながら正直に答えた母親は、その時点から、少年に「呑まれていた」のかも知れない。
「やっぱり気づきましたか? それはそうでしょうね」
と少年の方も、悪びれる様子もなく、むしろ照れ隠しの様子で、苦笑いをしていた。
「どういうことなんですか?」
「実はこの絵、目の前の光景を描いているんだけど、俺はそのつもりで描いてはいないんだ」
「えっ?」
ますます言っている意味が分からない。
「確かに題材は目の前の光景なんだけど、それはあくまでもベースという意味で、目の前に写っている光景をそのまま描いているわけではないんだよ。自分の中には妄想するものがあって、妄想した世界のものを描いているのさ。だから、よく見ると、煙突の数も違っているし、ここに描いたものだって、実際にはないだろう?」
彼の言われたところを見ると、確かにいう通りだった。煙突の数は、二本も少ないし、彼の描いているものは、実際の光景のどこにもないものだった。
「どうして、そんな描き方をするんですか?」
「絵を描くことに対して、何かルールでもあるんですかね? 僕は別に絵画の勉強をしたわけではないので分からないけど、思ったものを描いてもいいんじゃないかな? 有名な画家だって、話だけを聞いて、ショックに感じた感情から、発想、いや妄想を巡らせて描くことだってある。ピカソのゲルニカなんて、その典型なんじゃないかな?」
母親もピカソのゲルニカくらいは知っていた。ただ、その絵のエピソードに関してはウワサのような感じで少し聞いただけなので詳しくは知らない。
「天才肌の人ってそういう才能があるんでしょうね」
というと、
「いやいや、確かに生まれつきの才能を持った人は確かにいるけど、中にはそれに気づかずに才能が開花されずに一生を終わる人もいるんじゃないかな? そう思うと、本当の天才はもっとたくさんいるのかも知れない。その人が才能に開花できるかということが、本当に本人次第なのか、それとも何か見えない力に委ねられるところがあるのか分からないけどね」
「あなたは自分を天才だと思いますか?」
「そんなことは思わない。むしろ天才というよりも、天才でないところから、天才と言われる人を追い越してみたいと思う方ですね。だから、持って生まれたものなんかないことを祈っていますよ」
「ということは、今は目の前の絵をアレンジして描くことをしているようだけど、今後は、本当のオリジナルを描いてみたいと思っているということなの?」
「そういうことだ。分かってくれて嬉しいよ」
そう言って、二人はしばし見つめ合った。母親にとって、異性に興味を持つ前に感じた不思議な感覚ではあったが、ずっと心の奥にあって、根本的な考えの元になってしまったのを感じていた。
その少年とは、それからちょくちょく河川敷で出会っていた。ここに来れば彼がいることは分かっていたし、時間も夕方の夕暮れ時、風が止まっている夕凪の時間が一番果然時期から見た光景が美しく見える時間帯でもあった。
母親も次第にこの時間のこの場所が好きになってしまった。
少年がいようがいまいが河川敷を訪れるようになった。少年が来るのは三日に一度くらいだっただろうか。パターンが分かってくると、待っているのも楽しみになるというものだった。
母親は彼の絵を見るのが好きだった。出会ってから一年くらいは、三日に一度の枯野を見ていると、どこか安心している自分がいた。
しかし、一年くらいして、彼が河川敷に来ることはなくなった。最初は、
――どうしたんだろう?
と心配していたが、考えてみれば無理もないことだった。
元々彼は風景をそのまま忠実に描いていたわけではない。ベースがあってアレンジを描いていたのだ。そして、いずれはオリジナルを描きたいと言っていた。やっとオリジナルを描けるだけの自信がついたのかも知れない。
そうなると、この場所にくる必要性は何もない。むしろ、ここで工場の光景を見ていると、せっかくのオリジナルの発想の邪魔になるというものだ。
そう思った母親だったが、すぐにはその場所を見切る気がしなかった。
彼が来なくなってからも半年ほどは毎日ここに来ていた。
そして半年経ってある日、急に思い立つことがあって、その場所に来ることは二度となかった。
その思い立ったというのは、
――一番最初にここに来た時に比べて、かなり光景が違ってきた――
という思いである。
煙突は二つほどなくなっていて、しかも、以前はなかったところに何か施設ができている。
――この光景――
何と、少年が最初に描いていたものではなかったか。
作品名:アレルギーと依存症と抗体と 作家名:森本晃次