アレルギーと依存症と抗体と
住んでいたマンションは、慰謝料としてそのまま住むこととなり、父親だけが家から出て行った形になった。
母親は精神的に立ち直ると、さっそく仕事を見つけてきて、二人だけの生活に入ったのだ。
そんなことが小学生の頃にあった上杉は、中学に入ると、あまり母親と話をしなくなった。
誰にでもある思春期や反抗期、母親は生活を支えることに必死になっていたこともあって、さほど息子を心配することもなかった。
上杉も、子供の頃に感じた理不尽をずっとトラウマとして持っていたこともあって、思春期には、自分なりに悩んだりしていたようだが、トラウマが却って一人で考える時間に役立たせたようだ。
上杉にとって、母親だけしかいないという思いは、寂しさを感じさせたが、不倫相手と最初に面会した時、一人孤立していたことを思わせた。
――あの時、お母さんは、息子に自分の孤独な姿、つまりは、表から見た時の孤立無援を知られたくなかったんだ――
と感じた。
自分の部屋に引きこもらせたのも、息子の視線を感じることで、少しでも自分の弱みを見せたくないという思いもあったに違いない。
相手の女には失うものは何もない。女の様子を見ている限り、本当にお父さんを愛していたのか、疑問だったからだ。
実際に、お父さんは離婚して少しの間、その女と同居していたようだが、二年も経たない間に、お父さんは女のところを出て行った。完全に孤立無援になってしまった。
上杉はそんな父親を情けないと思う。しかし、可愛そうだとは思わない。自業自得だと思っている。しかし、そこまで考えると、最初に不倫相手を見つけたあの時、、
「お母さんには言わないで」
と言った時に、上杉が了承したのを見て、興奮した様子が思い出され、その理由が分からないことを上杉自身に、
「どうしてなんだ?」
と語り掛けた。
思春期における上杉の感じていたトラウマというのは、まさしくその時の父親の取った興奮していた態度だった。孤立無援になることを嫌ったはずなのに、結果的に孤立無援になった父は、本当に愚かなだけなのだろうか?
――そんなお父さんと、血が繋がっているんだ――
と思うと、トラウマは自分も孤立無援であることを教えてくれる。
後にも先にも、そんな興奮した顔をしたお父さんは初めて見たと思った。気が付けば自分も興奮していたような気がする。それだけに孤立無援を怖がっていると思ったのだが、その思いが間違いだったのだろうか?
お父さんにとって、お母さんの存在、そして息子の存在、そして不倫相手の女性の存在、今から思えば、誰一人として、同じレベルで考えることがお父さんにはできなかったのだろう。
それができていれば、不倫なんかしなかったかも知れない。少なくとも、母親と子供のレベルが違っていたことが問題だったのか、それとも、母親に対して、
「息子の母親としての存在、それとも自分の妻としての存在」
男にとって、この思いは避けて通ることのできないものなのではないだろうか。
思春期の頃の上杉が、異性に興味を持ったのは、他の人に比べて遅かった。中学時代には、ほとんど異性に対して、男としての興味は持っていなかった。女性というものは、
――汚らわしいもの――
という意識が強く、母一人子一人で育ててくれている母親まで、汚いものを見ているような気がしたのだ。
汚らわしいというイメージは、父親の興奮した表情が思い出されたからだ。不倫相手に対してデレデレしたイメージで接していたように見えた父親が、息子に対して見せた興奮したような表情は、それこそ汚いものを見ているようなイメージを抱かせたのだ。
しかも、その不倫相手が厚かましくも、母親を訪ねてきた。その顔には憎らしいくらいの余裕が感じられ、子供の上杉にまで女のオーラを感じさせていたようで、憎らしさがその時から汚らわしいものに変わったのだ。
母親は、そんな不倫相手と二人きりで話をしていたようだが、その内容は子供の頃では想像もできなかった。高校生になる頃には、少しは分かるようになってきた。
――なるほど、これなら息子には見せたくないよな――
と感じさせるものだった。
修羅場とはまさしくこういう時のことを言うのだろう。お互いに相手の頬をひっぱたくくらいの攻防はあったかも知れない。聞こえてきた奇声はその時のものだったのかも知れない。
それでも、それ以上に発展しなかったのは、お互いに大人だったということなのか、それとも、百戦錬磨の不倫相手に対して、母親が冷静に対応したということなのか、後者だと思いたい上杉だった。
――大人って、どこからが大人なんだろう?
大学生になってから、そのことを分かるようになってきた。
相手に対して、どれほど気を遣っているかというのは、大人としてのバロメーターだとは思うが、
「相手に合わせているように見えて、巧みに自分のテリトリーに相手を引き込み、最後は納得させることができる頭を持った人を少なくとも大人というのだろう」
と、思うようになっていた。
実直な性格が悪いというわけではないが、少なくとも大人にはなりきっていないと思う。人によっては、
「自分が信じたことができないようなら、大人になんかなりたくない」
と言っている人がいるが、上杉には、その気持ちは分かる気がする。
あすなのようなシンデレラコンプレックスと言われる「男性依存症」の女性は、大人になりきれていない。上杉が思うに、大人にはなれないということなのだろう。
異性に興味を持ち始めた時、ちょうど目の前にいたのがあすなだった。
上杉は、大人の女性に対しては、まだ汚らわしさを感じていた。自分の私利私欲だけのために動いているように思えたからだ。ただ自分の母親だけは違うと感じ始めたのは、
――女性は子供を産めば変わるのだ――
ということが分かったからだ。
上杉は、一人公園のベンチで佇んでいることが多かった。何かを考える時、公園のベンチから見える光景は目の保養だけではなく、子供を遊ばせる親の姿、ペットを散歩させる飼い主など、ほのぼのした光景が癒しになると思ったからだ。
最初はそのつもりで公園のベンチに佇んでいることが多かったのだが、そのうちにマンネリ化してしまったようだ。公園のベンチを見かけると、条件反射のように、身体に疲れを感じ、ベンチに座ることを欲していると感じると、気が付けば、座って目の前に広かる光景を見ていた。
そのうちに、身体のだるさを感じることもなく、ベンチに座っていたと思うことも多くなり、それだけ歩きながら何かを考えていた証拠なのだろうが、普段から何も考えていないようで、結構考えていることに気づいたのは、公園のベンチで佇むようになってからのことだった。
公園で子供を遊ばせているお母さんたちは、今まで自分が知っている「異性」とは違うものだった。
別に汚らわしいとは思わない。だからといって、異性を意識させない「おばさんたち」とも違っている。
――ほのぼのとした光景を見たい――
と思っていた光景が目の前に広がっているだけだった。
無邪気に遊ぶことも相手に、母親も無邪気だった。
「お父さんが不倫に走った気持ち、分からなくもないかも知れない」
作品名:アレルギーと依存症と抗体と 作家名:森本晃次