アレルギーと依存症と抗体と
相手の女性はヒステリックでわがままだった。
本当に父を愛していたのかどうかも分からない。父の何かを奪いたくて近づいたようだった。
子供の上杉にはそれが何か分からなかった。
当事者である父にも、
――まさか、彼女がそんなことをするはずなどない――
と思っているからなのか、まったく気づいていないようだ。
子供でも、何か奪おうとしていることくらいは気が付いたのに、当事者になって、本当に相手を好きになってしまうとここまで盲目になってしまうのか、子供から見れば、
「ただのバカ」
にしか見えなかった。
後から事実を知った母親は、激怒した。プライドを傷つけられたのか、泥棒猫に引っかかった父親に対しての憎しみから、本人も訳が分からなくなっているのか、ヒステリックは最高潮だった。
それでも、さすがに母親が一番大人で、激怒した状態でも、根本的には冷静だった。
もうその頃には父に対しての愛情など、欠片も残っていなかったのかも知れない。女というのは、冷めてきてしまうと早いもので、切り替えも早くできるようになると、相手の思惑も見えてきたのだろう。
この時の言い争いは、まさしく相手の女との最初のバトルだった。
いくらなんでも、一度だけで終わるとは思えない。最初のバトルの一番気になるところは。どちらが冷静なのかということだ。
普通に考えれば、冷静なのは乗り込んできた方だろう。
乗り込んでくる方と、乗り込まれる方、負けたことによって失うものの大きさはどちらが大きいかということは、誰が見ても明らかだった。
――お母さんには勝ち目はないか――
そういう意味では、最初のバトルは相手の女が勝つことになるだろう。
子供の頃にそこまで分かっていたわけもないので、大人になって思い出した時、自分が分かっていたつもりで思い出すと、もっとたくさんのことが思い出せそうに思うから不思議だった。
下手をすれば、あることないこと、着色して思い出してしまうかも知れない。しかし、思い出しても何かが変わるわけではないので、それはそれ、悪くはないと思えた。
「あなたには分からないのよ」
――どういう意味だろう?
今でも、上杉にはその時の言葉は謎だった。
十中八九その時の声は母親の声だった。相手の女の声ではない。
普通に考えれば、
「家庭を持ったこともないようなあなたに、私たちの気持なんか分かるはずはない」
という意味なのだと思ったが、今の上杉には、その時の母の心境がこれであれば、明らかに矛盾していると思えた。
この言葉は、自分にとって、「最終兵器」であり、「奥義」のようなものではないか、ここぞという時に使ってこその「伝家の宝刀」、それをあっけなく口にしてしまうのだ。
もし、相手に引導を渡すつもりで口にするのであれば、もっと冷静に、いや、これ以上ないというほど冷静でなければ、効果のない言葉である。
そのためには相手を追い詰めて、追い詰められた相手に対して、
「これでもか」
という追撃がダメ押しにならなければいけない。
それをまるで取り乱したように、ヒステリックに口にするというのは、せっかくのミサイルを、燃料も積まずに、発射したようなものだ。不発弾となってしまうだろう。
だが、ただ不発弾として終わるだけでは済まない。最初は、
「しまった」
という程度の後悔が、次第に大きくなってくると、トラウマになって残ってしまうほどの大きなものになる。
――お母さんが、そんな初歩的なミスを犯すなど考えられない――
その証拠に、奇声が聞かれたのは、その時が最初で、結局、別れることになって、その女性を見ることがなくなるまでに、一度も母親から奇声が聞かれたことはなかったのである。
いまだにその時の奇声は謎であるが、そのために、上杉の方で、その謎がトラウマとして残ってしまった。
ただ、あの時に母親が奇声を発したのは、わざとではないかと思っている。何か最初に相手に対して自分のイメージをミスリードするために計算された出来事だと思えば、それ以降の母親の行動に、矛盾点は見つからない。一度の矛盾が相手に植え付けた印象を、息子には聞かれていないと思ったことで、成功させてしまったのだとすれば、母親は息子が感じているよりも、かなりしたたかな性格なのだろう。
「俺にもあの血が流れているんだ」
そう思うと、背筋に悪寒が走り、ゾクゾクしたものを今でも思い出すことができる。
近い過去に同じような思いをしたような気がしたが、それがいつだったのか思い出せないほど、この気持ちは時々起こっているものであり、自分の中で自然な感覚を有していたのだ。
父と母が離婚したのは、それから少ししてのことだった。
円満離婚とはいかなかったのは、子供のことと、金銭面での揉め事だった。お母さんはすでにお父さんに対して愛情をなくしているようだったし、お父さんも最初から覚悟をしていたようだ。
お父さんを見ると、神妙な面持ちだが、ショックを受けている様子ではない。最初から覚悟でもしていたかのような雰囲気に、
――それなら、あの時の顔は何だったんだ?
息子が黙っているということを言った時に興奮していた意味が分からなくなった。
あれは、不倫を息子が認めたことへの安心感ではなかったのか?
いや、安心感というのであれば、興奮するというのもおかしい。ドキドキしていた気持ちがホッと胸を撫でおろす時が、安心感と言えるのではないだろうか?
あの時の父親の心境は今だったら少し分かるような気がする。
「お前もやっぱり俺の息子だったんだな」
と言いたかったのだろう。
つまりは、一人でも分かってくれる人がほしかった。それだけ寂しさを募らせていたということなのだろうが、どうしてそのことに気づかなかったのかというと、好きな女性と一緒にいるにも関わらず、分かってくれる人が他にもほしいという感覚が分からなかったからである。
不倫相手は女であり、奥さんであるお母さんも女である。当事者は皆女、しょせん男の立場で考えてくれる人はいない。
こんなこと誰に相談できるというものではない。相談したとしても、
「やめておけ。最後は泥沼だぞ」
と言われるのがオチだった。
そんなことは分かっているのだ。分かっているが、味方になってくれる人が一人でもほしかった。
それが、いくら子供だとはいえ、自分の血を分けた息子。同士のような気持ちになったのだろう。不倫の何たるかなど知る由もない息子に同士だなんて、バカげた考えを持った父親は、本当にどうかしているのだ。
やはり案の定、泥沼の離婚劇、父に残されたのは、慰謝料と月々の養育費だった。円満離婚とは行かなかったのは、その金額と息子への面会権で揉めたからだった。
母親は、断固として面会権を認めたくないようだったが、離婚調停で最終的には、制限付きで認めざる負えなかった。さすがに慰謝料と養育費は折れなければいけなかったが、調停で最終的に決まったことなので、あとは、離婚届を提出するだけだった。
息子の上杉は、そんな泥沼の状態を目の当たりにしたわけではないが、
「離婚は結婚の何倍も体力がいる」
と言われている通りの体力の消耗は、母親を見ていればよく分かった。
作品名:アレルギーと依存症と抗体と 作家名:森本晃次