アレルギーと依存症と抗体と
そう言い切れる自分でありたいと思うようになったのはその時だったのかも知れない。
「あなたには、分からないのよ」
どちらの声だろう? 大きな声が聞こえた。
最初から聞こえないように静かに話していたのを、何とか盗み聞こうとして耳を澄ましていたところに、急に大きな声が聞こえたのだ。それだけでも、相手が誰なのか瞬時に判断できるはずはない。
しかも、その声がヒステリックであり、同じ女性ということもあり、子供の上杉であっても判断するのは難しい。
相手の声を少しでも聞いていれば、判断材料になっただろうが、上杉を見ても、一切口を開かなかった。平静を装い、氷のような冷たさがあった。
――やっぱり、お母さんなのかも知れないな――
息子に聞かせたくないという思いと、相手に負けたくないという思いとが交錯しているのだろう。
もし母親の声だとすると、相手が何者なのか、上杉にも分かる。今まで一度もこのお話に登場していないその人、父親が絡んでくることとして、今日現れた女性は、その父親の不倫相手なのだ。
大人になってから思い出す上杉には、その時の情景が手に取るように分かるようだ。
母親の心境としては、息子の上杉に対して、父親が不倫をしているということを知られたくないという思い、ただ、その時上杉は、父親が不倫をしていることを知っていた。以前父親が表で女性と親しくしているのを遠くから垣間見たことがあった。ちょうど父親はその日、彼女との別れの時間だったようで、名残惜しそうに手を握り合いながら、短い時間の中で何度か繰り返された抱擁を見てしまうと、いくら子供でも、違うと考えるには、材料がまったくなかった。
二人は別々の方向へ離れていった。
何度も別れを確かめ合って、その場から立ち去った二人は、未練がましく振り返ることをしない。
――さすが大人なんだ――
とまるで他人事のように感心していた上杉だったが、その感心がすぐに打ち消されてしまった。
男性の方がこちらに近づいてくる。最初に気づいたのは上杉だった。
「お父さん」
思わず声に出そうとしたが、やっとのことで思いとどまった。
男性はそれでも気づかずにこちらに歩いて来ようとするが、その様子を見て、
――今、隠れれば気づかれずに済む――
と思った上杉は、そそくさと物陰に隠れようとした。
その時の不自然さに、父親は気づいてしまった。
ひょっとすると、隠れようなどとしなければ、見つからずに済んだのかも知れないが、なまじ下手な行動を取ってしまったために、まるで、
「下手な考え休むに似たり」
ということわざが示すように、不自然な行動が目についてしまったのだ。
「昭雄?」
「お父さん」
お父さんの顔が、あまりにも自然だったので、思わずさっき見たことは夢だったのではないかと思うほどになっていた。
しかし、それは自分の願望であり、一度焼き付いた光景は、そう簡単に消えてしまうものではない。父親もそんな上杉のやりきれないような表情に、今までの光景が見られていたことを悟ったのだ。
「見ていたんだな?」
「うん、さっきの女の人は誰なんだい?」
ここまで言うと、父親も観念しなければいけないと感じたのだろう。
「ああ、あれは、お父さんが好きになった人なんだ」
「お母さんは?」
と聞くと、少し黙った後で、
「お母さんも好きだよ。お前を生んでくれたんだし、何と言っても家族だからね。でも、子供のお前にはまだ分からないかも知れないけど、お父さんは男なんだ。男というのは、いくつになっても女の人に惹かれたり、好きになってもらった人に冷たくできないものなんだよ」
と話していた。
大人になれば、その気持ちは痛いほど分かる。
しかし、子供の上杉には理解するのは無理だった。ただ、何となく父親が子供にも分かりやすく話してくれているというのは分かった。分かった上で、お父さんにはお母さん以外に好きな人が現れたことを知ったのだ。
ショックではあったが、それはそれで仕方のないことだと思った。子供であっても、男なのだ。まだ異性に興味を持ってもいないのに、父親の気持ちが何となくだが分かった気がした。親子の絆のようなものも影響していたのかも知れない。
――お母さんが知ったら、どうなるだろう?
という思いも頭をもたげた。
すると、父親は、
「このことはお母さんには黙っていてほしい。お父さんのわがままなんだけど、お母さんに言えば、お母さんをとても傷つけることになるからね」
子供であっても、これにはあまりにも都合のいい言い分だということは分かっていた。それでも、言っていることは間違っていない。確かに、まともにお母さんに話してしまうと、息子の一言で、家庭が崩壊の危機に直面してしまうのだ。その引き金を引く息子になることは、死んでも嫌だった。
だからと言って、知らないふりをしながら、状況が推移していくのも嫌だった。
「僕もお母さんには言わないので、お父さんもお母さんに知られないようにしてもらわまいと困るよ」
というと、
「そうか、ありがとう。お前が物分かりのいい息子で助かったよ」
と、少し興奮気味だった。
それを見て、少し不安に感じたが、実際にはその不安が的中したわけであるが、その時の上杉には、予期できるものでもなかった。
後から思うと、
――あの時のお父さんは、聞いているふりだけをしていたんだ――
真剣に聞いていたわけではない。真剣に聞いていれば、あんなに興奮したような様子ではなかっただろう。
――息子が認めてくれた――
そんな風に思っていたとすれば、実にめでたい人である。
父親は頭のいい人には違いないが、相手が子供だと、とたんに普通以下の父親に格下げされてしまう。そんな父親を、好きになんかなれるはずもなかった。
父親に対して、
「黙っている」
と言ったのは、あくまでも、自分の手で家庭を崩壊させたくなかったからだ。
「お父さんも知られないように」
と言ったのは、
――別れられるものなら別れてほしい――
という思いを込めたつもりだったのに、それをまさか嬉々として返してくるなど、まったくの想定外だった。
想定していた最低ラインよりもさらに下だったことで、もうこれ以上父に話しても同じだと思った。
――離婚してもしょうがないよな――
と、上杉は思った。
もし、離婚にならないとすれば、母が許す時だが、母の性格からして許すことは考えられない。どう着地するか分からないが、離婚は避けられないだろう。
後は、母親の挙動だけだった。
それを思うと、余計に父親を見たことを自分の口から話すことはできない。下手に話してしまって、母親に違った先入観を与えてしまうのが怖かったからだ。
それに、
――知らなかったのは自分だけ――
という状況を母親に作りたくなかった。
本当は、見たことを素直に話すのが、自分では一番楽なのだが、そうなると、同じ離婚するにしても、修羅場が修羅場を呼び、収拾がつかなくなってしまうのが怖かったのだ。
途中までは上杉の思惑通りに進んでいた。
しかし、その計算が狂ってきたのは、相手の女性の正体が分かってからのことだった。
作品名:アレルギーと依存症と抗体と 作家名:森本晃次