アレルギーと依存症と抗体と
何しろ、人の心は変わるものである。絶対に変わらないと思っている自分の気持ちだって、何かのきっかけで変わるかも知れない。それは誰にも分からないことで、分からないことを完全否定などできないという思いが二人にはあった。
そのせいもあって、二人は付き合っているという認識が、公然の秘密のように思われるようになった。あすなは別にそれでもいいと思っていたが、上杉の方は、どうにも承服できないところがあった。
「物事は、ハッキリさせなければいけない」
という思いも上杉の中にあったからだ。
人の気持ちは流動的で、どう変わるか分からないという気持ちと矛盾しているかも知れないと思ったが、現実的な考えと、理想主義的な考えが同居している上杉は、子供の頃からいろいろ思い知らされることが多かったからだった。
上杉は子供の頃に親が離婚。母親に育てられた。離婚の原因は父親のギャンブルと不倫だったという。子供の上杉にそんな大人の理由など分かるはずはなかったが、親が大変なことになっているということは、分かっていた。
――なるべく、自分が関わってはいけない――
子供心にそう思うようになったのは、毎日のように家に誰かが来ていて、その場にいるのは両親が揃っている時もあったが、ほとんどは、母親だけの時だった。父親だけという時もあったが、ほとんど稀だった。
誰がお客さんとして家に来ても、
「昭雄、悪いけど自分のお部屋に入っていてくれないかな」
と言われて、すごすごと自分の部屋に入り込む。
最初の頃は、テレビを見ていてもゲームをしていても、表で何を話しているのかが気になって仕方がなかった。今まで家族しかいなかった家に、急に他の人が入り込んできて、いつも笑顔だった母親から笑顔は消え、皆神妙な面持ちになっているのを見ると、子供であっても、それが一大事であることは容易に想像がつくというものだ。
時々、大きな声が聞こえてきて、ビックリさせられた。恐る恐る部屋の扉を開けると、
「子供に聞こえるじゃないか。そんなに興奮しちゃだめだよ」
という戒めの言葉が聞こえてきた。
どうやら、母親が奇声を発したようだ。
ここまでくれば、尋常ではないことも分かってくる。
「じゃあ、また来るよ」
と言って、その日の客は帰って行ったが、その時の母親の疲れは尋常ではない。すでに家事をする気力もなければ、グッタリとして、リビングのソファーに寝転んでいた。そのまま朝まで眠ってしまっていることもあるくらいで、上杉はそんな母親に何と声を掛けていいのか、分かるはずもなかった。
しかも、その日の夜も来客があった。
母親は、昼間パートに出ていて、昼過ぎに帰ってきて、家事をこなしていた。グッタリとして寝てしまっても、朝起きてしまうと、いつもの母に戻っていて、夕方の家事を済ませるまでは、普段と変わりはなかった。
しかし、家事も終盤に差し掛かり、西日が傾き始める頃に、母の表情が一変する。上杉にご飯を食べさせた後、後片付けを始める頃から、顔が真っ青になっていった。それを見ると、その日も来客があることは間違いないと確信する上杉だった。
その日の来客は、前の日と違っていた。
前の日は男性だったが、今回は女性である。その女性の顔は見たことがなかった。ママ友だったらある程度は分かっているし、こんなに顔が真っ青になるほどではない。昨日の男の人とは明らかに違った対応を余儀なくさせられるのだと、上杉にも分かった。
昨日の男性は少し年配の人だった。
後から聞いた話では、普段から母親の相談に乗ってくれていた人で、何か問題が起こった時は、親身になって相談に乗ってくれたとのことだった。どうやら、その日は翌日に会うことになっている人との対策を話し合ったということだった。
昨日の奇声は、きっと母親にとって承服できないことを言われて、ヒステリックになったのだろう。大人の会話の詳細など分かるはずもなく、興味があるわけではない上杉でも、さすがにあの時の奇声だけは気になっていた。
さて、本日やってきた女性、彼女は母よりもかなり若い女性で、上杉から見ると、
「お姉さん」
と言わなければ怒られそうな雰囲気だった。
間違って、
「おばさん」
なんてことを口にすると、
「おばさんじゃないわよ」
と、即刻否定されそうだった。
今風の恰好は、まるでファッションモデルを思わせ、子供から見ても、身体の線が綺麗なのは分かった。
――もし、この人が母親を苦しめる相手ではなかったら、自分にとっての憧れの女性として頭の中に残ったかも知れない――
と感じたくらいだ。
そのせいもあってか、少ししてから、その女性の雰囲気を思い出そうとしても思い出すことはできない。思った通り、その人は母親を苦しめる相手であった。しかし、身体の線の美しさや綺麗な顔にドキドキしたのは事実であり、その二つの矛盾が子供の上杉にはジレンマとして抱え込むことができず、結局相互打ち消しのような形になり、その女性の雰囲気を自分の中で封印してしまう結果になってしまったのだ。
上杉の母親は、ソワソワしながらその女性を待っていたが、やってきた女性を迎え入れた時の表情は、何かを覚悟したかのようだった。そして、またしても、
「昭雄、悪いけど自分のお部屋に入っていてくれないかな」
と、昨日とまったく同じ言葉を言われて、引き下がるしかない自分を情けなく思う上杉だった。
上杉の予想では、すぐにでも修羅場が展開されるような気がしていた。引きこもったはいいが、いつものようにテレビをつける気も、ゲームをする気にもならない。かすかに扉を開けて、リビングの方に聞き耳を立てていた。
かすかに声が聞こえてくる気がする。もちろん、会話の内容も、どっちが喋っているのかも分からない。相手が男性であったとしても、ここまで小声で話されると、どちらが話しているのか分からないだろうと思うほどの小さな声だった。
ボソボソという声はひっきりなしに聞こえていた。会話は繋がっていたのだ。お互いに言いたいことはいっぱいあるのだろう。しばらく聞いていたが、会話が途絶えることはなかった。
――会話が続いている間は安心だな――
と上杉は思っていた。
会話が途切れた時が怖いと思ったのは、何を話していいのか片方が分からなくなると、相手も何をしていいのか分からずに、二人して途方に暮れてしまうからだ。一度会話が途切れてしまうと、そこから先を続けるのは困難だろう。そのままお開きになってくれればいいのだが、そのまま会話が続いてしまうと、そこから先、何が起こるか分からない。
いや、何が起こっても不思議のない状態に突入するということだろう。
最悪の場合を母親は前もって想像していたのかも知れない。それが家事をしている時に感じた、あの時の真っ青な表情である。女がやってくる時には意を決したように構えていたが、その決した決意が、どこまで通用するか、それが問題であることを上杉は感じていた。
――大丈夫なんだろうか?
まだ続いている会話にドキドキしながら、余計なことを考えてしまう自分が怖かった。
――きっと大丈夫さ――
作品名:アレルギーと依存症と抗体と 作家名:森本晃次