アレルギーと依存症と抗体と
つまり、他人を蹂躙できるということが楽しいというのを感じているのは、自分だけではなく、すべての人がそうなのだろうと思っていた。それが本当のことなのか、勘違いなのか分からないし、すべての人というのが、無理があると思っているのだとすれば、本当は信じていないことになる。その違いを分かっていなかったのは事実だった。
「百人いて、百人すべてが自分の考えと同じなのか、いや、一人は違うが、他の人は皆同じだというのとでは、さほど違いがない」
と思っているのだ。
少数派は、この際、あすなの頭の中から消えていた。実はその考えが、あすなを妄想に駆り立て、しかも、その妄想の中では相手を蹂躙するという、自分の中の絶対的な優位性に酔っていたと言ってもいい。
しかし、優位性はあすなだけが望んだものではない。相手の男性があすなに対して蹂躙されることを悦びと思っていなければ成立しないものだ。いわゆる「SMの関係」というものだ。
あすなは、SMの関係というのは知っていたが、実際にはどういうものなのかまでは知らなかった。普段のあすなは、異常性欲ともいえるSMの世界を覗こうとは決してしなかった。誰かが話題を振っても、
「いやよ、そんな話」
と言って、興味もなければ、汚らわしいとでも言わんばかりに露骨な態度を取っていた。
それは逆に、
「私には、興味があるのよ」
と言わんばかりであることを知っている人もいただろうが、あすなの前では誰もが、
「あすなは、SMの関係なんて世界は知らない方がいいのよ」
と言っていたことで、あすなも、興味のないふりを続けられたのだ。
あすなにとってのSMの関係というのは、
「自分が主人で、相手の男性は、自分に絶対服従の奴隷である」
という定義以外にはありえなかった。
実際SMの関係というのは、自分がご主人様で、相手が奴隷という関係以外には存在しえないと思っていたのだ。
ある日、一人で本屋に出掛けた時、あすなは、SM小説の背表紙と目が合った。まるであすなに、
「読んでください」
と言わんばかりに見えたのだ。
誰かが前に引き出して、中に戻した時に中途半端だったのか、少し背表紙が飛び出していたのは、ただの偶然だろうか。気になってしまったのは当然のこととして、本棚からその本を引き出した。
内容を見ていると、次第に自分が本に引き付けられるのを感じた。
主人公は女性だった。内容はフィクションなのか、ノンフィクションなのか分からないが、主人公は一人称で描かれていた。
主人公の彼女は、ある男性の「奴隷」として描かれていた。そして「奴隷」としての内容は、そのほとんどが性欲の奴隷だった。あすなが考えている自分にとっての奴隷というのは、性欲には関係のないもので、ただ自分に尽くしてくれる相手を蹂躙しているという意識を持つことだったのだ。
だから、考えてみれば、自分の夢や妄想に出てくる男性は、自分があすなに蹂躙されているという思いが本当にあったのだろうか? むしろ、相手に従うということが快感であると感じていたことは、「奴隷」という発想とは交わることはないと考えていた。
「でも、性欲という生々しい欲望が絡んでくると、そこには奴隷という位置づけは必要不可欠になってしまうんだわ」
と感じた。
自分の夢や妄想は、あくまでも、まだまだ未熟なもので、発展してくると、行き着く先は、性欲に塗れた
「ご主人様と奴隷」
という、SMの境地に達してしまうに違いないと感じた。
あすなは、文庫本を手に、レジに向かった。その本を自分のものにしたいという気持ちが最高潮に達したのだ。
「本を読むのに、こんなにドキドキするなんて初めてだわ」
ある程度までは、想像することができると思っている。
しかし、その本の内容は、その自分の中にある、
「ある程度」
という発想を上回る期待を抱かせてくれるに違いなかった。
自分が妄想や夢で見ていることなど、足元に及ばないような内容がその本には書かれていて、決して自分の期待を裏切ることのない内容に、読み終わった後、ショックすら受けるのではないかと思っていた。
その本は、自分の発想や妄想が最初にあって、ある男性と出会ったことで、その内容が一つ一つ達成されていくことへの満足感が快感に変わっていくことを書いていた。しかもその書き方として、深層心理の中の自分との会話という形で書かれていることが、あすなの共感を呼んだ。
――まるで私の思っていることを代弁してくれているようだわ――
自分は、まだ奴隷になったという発想をしたことなどなかったのに、本を読んでいるうちに、いつの間にか、自分が主人公になったかのような気になっていた。完全に、本に対して感情移入されていたのだった。
しかも、あすなは途中から、自分が相手の男になって、女を蹂躙している快感すら味わっているような気がしていた。
普段の妄想や夢の中では自分は相手を蹂躙しているのだ。本来であれば、主人公よりも相手の男性に感情移入してもいいはずだった。
だが自分が女であるという発想から、奴隷になる快感も本を読んでいると分かってきたような気がした。そして、奴隷になっていることで自分が何を求めていたのか、何となくだが分かってきたような気がした。
それは、男性に対しての、
「依存する気持ち」
だった。
――奴隷というのは、相手の喜ぶことを素直に感じ、行うことで相手に守られているともいえるのではないか?
あすなは、本を読み込んでいくうちに、主人公の気持ちに入り込んでいくうちに、そう感じるようになっていた。
もっともそれは、深層心理を描いている作者の術中なのかも知れないが、それでも、あすなには、依存という意識が頭から離れなかった。
あすなが、「男性依存症」になった理由の一つに、この本が影響したのは、紛れもない事実であった。
そんなあすなも二十三歳になっていた。これからあすなにはどんな運命が待っているというのだろうか……。
母親の再婚
上杉昭雄の二十三歳になるまでの人生も、波乱に満ちたものだった。いつもそばにあすながいてくれたことが、あすなにとってよかったと思っていたが、上杉にとってもあすながそばにいてくれたことはありがたかった。いつの間にか、腐れ縁だと思うようにもなっていたのは、自分になかなか彼女ができなかったのは、あすながそばにいたからだと思ったからだった。
確かにそのことに間違いはない。
中学時代、高校時代とあすながそばにいたことで、
「あの二人、いつも一緒にいるじゃない。きっと付き合っているのよ」
と思われても仕方がなかった。
もちろん、
「あなたたち、付き合っているんでしょう?」
と聞かれることも多かったが、二人はいつも曖昧にしか答えていなかった。完全否定をしなかったのは、相手がどう思っているか分からないという思いがあったからで、口では「友達以上恋人未満」と言いながらも、相手の真意を掴みかねていた。
作品名:アレルギーと依存症と抗体と 作家名:森本晃次