短編集48(過去作品)
田代坂
田代坂
坂にもいろいろな顔がある。
急勾配の坂、緩やかで果てしなく続いていきそうに感じる坂、敏郎の住む街には大小さまざまな坂があるが、そのすべてを知っているわけではない。通勤路に絡む坂以外はあまり通ったこともなく、それだけ毎日平凡な生活を続けている証拠だった。
学生時代まで住んでいた街は、あまり山や丘とは縁のないところで、坂道などほとんどなかった。その代わりに海が近くにあり、いつも潮の香りを感じながらの生活だった。
決して都会で育ったわけではなく、住んでいたところもまだ漁村としての名残を残していた。堤防の向こうには砂浜が残っていて、子供の頃にはよく遊んだものだ。
しかし、敏郎自身、潮風は好きではなかった。生暖かさが時折体調を崩す原因になっていたようで、風邪の引き始めには必ず潮の匂いが一定していたのだ。
「緑に囲まれた生活がしたいな」
大きくなって生活するなら、山間に住んでみたいと考えるようになっていた。中学生の頃に出かけた登山でそれを感じた。山と海、まったく正反対の顔を持ったところでの生活、いずれは海と訣別する生活をしてみたいと感じたのも無理のないことだった。
就職先は家から通えるところではなかった。転勤も多いということで、会社の近くにマンションを借りることにした。中途半端な都会ではあるが、実家に比べれば十分都会で、何よりも近くには山があることが一番嬉しい。
会社に入ってしばらくは研修で街を離れていた。研修は二週間ほど、公共機関の研修センターで行われた。まわりには娯楽施設も何もない、それこそ山の中なので、他の新入社員たちは、日を追うごとにストレスが溜まってきているようだったが、敏郎にはそれほど苦痛感はなかった。緑に囲まれた施設での研修は、敏郎にとっては願ったり叶ったりだと感じたからだ。
二週間というのもちょうどいい時期だったのかも知れない。それ以上長引くと、さすがに精神的にも知らず知らずにストレスが溜まっていたかも知れない。
――山の中という空気の中にいるのだから、それだけで幸福なんだ――
と思っている敏郎にとって、無意識に溜まってくるストレスに対抗する術は持っていない。
潮風に比べて山の空気の方が重たさを感じるのは気のせいだろうか。潮風は身体に纏わりついてくるが、実際に重たさを感じるわけではない。山の空気は緑が豊富で、匂いも潮風のような辛さは感じられない。生暖かさを感じることもないだけに、重たさがリアルに身体にのしかかってくる。深呼吸をするのがきついくらいだった。
だが、それは最初だけだった。日一日と身体に馴染んでくる。
「それはきっと毛穴が開いてきている証拠かも知れないな」
と同僚が話していたが、確かに緑の中では気持ちよさが感じられると同時に深く息をすると、息苦しさが感じられた。それが空気の重たさによるものだということに気付いたのは研修から三日経ってのことだった。
今まであまり食べなかった朝食も、山に入ってから食べるようになった。研修という規則的な生活を、初めて家を離れてすぐに体験できたのもよかったのかも知れない。
――米の飯がこれほどおいしいとは思わなかったな――
朝早めに起きて散歩する気分的な余裕ができたのも、三日目からだった。
「普通三日目というと、最初の疲れが出てくる頃なんだけどな」
「俺の場合は、やっとこの環境に慣れたってところだからな」
早朝の散歩にビックリした同僚が話してくれたが、その時、初めて自分が海に面したところで生活してきたことを話した。
「俺は海とはあまり縁がなかったからな。羨ましいくらいだよ」
「潮風ってかなりデリケートだからな。何と言ってもサビの原因になったりするくらいだから、人間に対して影響がないとは言えないからな」
「お前は神経質すぎるんじゃないか?」
「そうかも知れないな。潮風を強く感じた次の日は、よく熱を出して学校を休んだりしたものだったよ」
学校を休みがちになったのは、小学四年生になってからだった。それまでは体調が悪いことはあっても、発熱するようなことはなかった。
――また熱が出るんじゃないだろうか――
と思った次の日に必ず熱を出していたものだ。
敏郎は、自分で見たことや感じたことでないと信じないところがあった。その反動が、自己暗示にかかりやすいところなのかも知れない。理屈っぽい性格だということは自他共に認めることで、学校の先生にとっても手を焼く生徒の一人だったに違いない。
「お前はどうして出された宿題をしてこないんだ」
とよく先生に叱られたものだが、敏郎としては別に反抗しているつもりはない。
――覚えてさえいればやっているさ――
と心の中で叫んだ。
敏郎は整理整頓が苦手だった。小さい頃から親に、
「整理整頓をしなさい」
と言われ続けたが、
――整理整頓など、どうしてしないといけないんだ――
と、自分の中で整理できないことに対しては、徹底的に自分の中で反抗していた。親とすればそんな子供が情けなかったに違いないが、所詮子供の気持ちなど分かってくれるはずもなかった。世間体を気にする父親に、あまり世間のことを知らない母親、子供心に漠然とであるが二人の性格を分かっていただけに、どうして従うことなどできようか。
整理整頓をする理由が分からないまま放っておくと、次第に整理整頓をしない状態が普通に見えてくる。綺麗にしている方が却ってぎこちなく感じるようになってくる。感覚が麻痺してきていると言っても過言ではないだろう。
忘れっぽい性格はそこからの飛躍である。
「この子は整理整頓もしないし、忘れっぽい性格でもあるし、どうしてなのかしらね」
と母親は何かにつけて叱る時にこのことを口にする。それほど母親の頭の中にこの二つが気に掛かっているのだろう。
しかし、肝心なことを分かっていないと思うと、敏郎も母親に対して歩み寄る気持ちが失せてしまう。肝心なこととは、この二つが密接に結びついているということだ。このことを分かってくれない親に対し、敏郎は不信感を持ち始めていたのだ。
不信感はあくまでも敏郎の自分勝手な言い分である。自分勝手であるが、元を正せば理屈から考えて行動に移すタイプの敏郎に対して、結論だけを押し付けようという態度が招いたことだ。しかも母親には、
――世間知らずのくせに、世間体ばかり気にする父親の意見ばかり気にしていて、それを子供に押し付けられたらたまらない――
という思いを常々抱いている。そんな気持ちの行き違いに対して、どこを譲歩すればいいのかなど、敏郎の中にはなす術を持っていなかった。
どうして忘れっぽくなるかということであるが、
「忘れるなら、ちゃんとメモをしておけばいいではないか」
とよく言われる。
しかし敏郎としては、
「メモに残すのはいいが、どこに書いたのかが分からなくなるんだ」
と言いたい。
「そんなことはないだろう。書くところを一定にしておけばそれでいいんだから」
作品名:短編集48(過去作品) 作家名:森本晃次