短編集48(過去作品)
縦に長い楕円形をしていて、中心に行けば行くほど黒さが濃くなってくる。パッと見、大きく見えるのは、白い壁に写った色が少しでも違えば気になるからで、見つめていけば本当に気になるところだけが沁みとして瞼に残る。それが顔の大きさくらいなのだ。
思わず顔を近づけて壁に耳を当ててみる。
部屋の明かりを暗くして、カーテンを閉め切っているのに、どこからか漏れてくる光を感じながら、気持ちは左耳に集中していた。
今度は自重することができず、淫靡な気持ちが胸の鼓動を呼び、ちょっとした悪戯心が、気持ちの中に楽しさを呼び起こした。
――俺の小さかった頃ってこれくらいの大きさだったのかな――
小さい頃から、親や先生の言うことに逆らったことはなかった。いや、逆らっているという意識がないだけで、結構自分の考えだけで動いていたのかも知れない。壁に耳を当てる行為をしながら、小学生時代の自分を思い出してしまうのは、そのせいであった。
――邪な心って、ここまで気持ちをドキドキさせるものなんだ――
本当なら何かの罪を形成するかも知れない。だが、まったく罪の意識もなく、淫靡な気持ちに誘われるまま、そこに存在しているのは自分だけのはずなのに、誰かの存在を気にしていた。きっともう一人の自分だったに違いない。その人に見つめられているのを感じながら、もうどうすることもできない。
最初は自分の胸の鼓動だけが聞こえていた。
壁に耳を押し当てていると、自然と息を殺してしまっている。すると異様な匂いを感じた。セメントにシンナーが沁み込んだような何とも言えない強烈な匂い、それが過去の記憶を麻痺させる効果を呼ぶ。
――小説を書いていても記憶力の低下を感じたな――
小説を書いている時、アイデアが湯水のごとく出てきて、ペンが進む時、やはり異様な匂いを感じていた。それがどんな匂いだったかは覚えていないが、それだけ自分の作り出した小説世界に集中していたのだ。
次第に漏れてくる話し声、一体何を話しているのかハッキリとは聞こえないが、男の人の篭ったようにボソボソと話す声、そして高い声で笑っている女性の声が大袈裟に響いていた。その笑い声を聞くと、なぜか興奮していた。
どれくらいの時間が経ったのか、声がしなくなった。
「ドタン」
物音だけが聞こえてくるが、それでも壁から耳を離す気にはなれない。却って神経が集中してくる。
「あっ」
女性がらした声だった。その一言を春樹は待っていた。胸の鼓動は最高潮に達し、痛いくらいに耳を壁に押し付ける。
「あ、あっ、あっ」
何が行われているか春樹でなくとも分かるはずだ。もちろん壁に耳を当てなければ聞こえない声であるが、全神経を壁に集中させることで、身体全体で感じていた。だが、聞こえてくる声はあくまでも左耳で感じている。それが一番の快感であった。
もし部屋全体に響くだけの大きな声だったら、きっと興ざめしていたに違いない。壁一つ隔てた空間で行われている行為だけに、空間のどのあたりなのか、どのような感じで行われているのか、すべてが想像である。
想像力を高めたいと常々思っている春樹にとって、願ったり叶ったりの行為である。誰にも言えるわけのない恥ずかしい行為。密かな楽しみとして自分の中に持っているが、もう一人の自分が見つめる目が、
「お前は変態だ」
と蔑んでいる。
惨めな思いが脳裏を過ぎる。
変態と呼ばれ、片や惨めな思いが過ぎり、片や小説を書いていく上で、打ち出の小槌のように湧いてくるアイデアの泉を発見した喜びに浸っている自分がいる。もちろん、そんなことは言い訳で、麻痺してくる感覚に酔いしれていた。
落ちるところまで落ちたはずなのに、落ちた場所には自分の探していたものが見つかったのだ。
――それは本能のまま動く自分に対してのただの言い訳に過ぎない――
確かにそうかも知れない。離婚という大きな人生の節目を境に、それまで成長を続けてきたと思っていた自分が、一直線に落ちていったのである。その途中で芸術に出会い、もう一人の自分を見つけたと思っていたが、芸術をしている自分に対し冷静な目が本当に養えていたかどうかと考える。
芸術をする上で冷静な目を持つことが不可欠だと思っていたはずなのに、化けの皮が剥げたようで、気がつけば奈落の底が見えていた。
――求めていた出会いもあっただろうに――
気がつかないだけで多くの出会いを見過ごしてきたようにも思える。集中することでまわりが見えなくなるのは仕方のないことだが、もし見えていたとしても、自分でものにできるかどうか分からない。麻痺した感覚でそれだけは分かっていた。
壁を通して聞こえる隣の声が最高潮を迎えた。
糸を引くような声とともに訪れた静寂、その瞬間空気に湿気を感じた。
春樹に気だるさが襲ってくる。
――開けてはいけないパンドラの箱を開けてしまったんだ――
後悔が押し寄せてくるが、もう引き返せない気持ちにもなっていた。そこには今までに見たことのない捩れた空間が存在していたに違いない。
耳を壁から離すと、そこには先ほどよりも黒い影が映っていた。沁みというよりも影に近い。沁みと影との違いは、沁みはその形がハッキリしないのに対し、影はハッキリしているように感じるところである。ハッキリしているのだが、実際のものよりも大きい。それは、影が光によってもたらされるもので、壁というスクリーンに虚映のごとく映し出されるからだ。
春樹はすべてを失ってもいいと思った。実際に自分のまわりで音を立てて今まで築き上げてきたものが崩れ落ちているのを感じている。目の前にぶら下がっている新しく掴むことのできるものをことごとく見逃してきたのだ。
――見えているつもりで見えていない――
最近、今さらではあるが物覚えが悪くなったのを感じる。集中力に欠けているからだろう。覚えておかなければいけないことだと感じても、他のことを少しでも考えれば、もう覚えていない。昔から人の顔を覚えるのが苦手だったが、それも同じことだった。他の人の顔を意識してしまえば、もう覚えることができない。完全に自覚してしまっていて、記憶力というのには限界があり、自分でその限界を見切ってしまっていることに気付くと、自分というもの全体が見えてくるのを感じる。それは影に比べれば小さなもので、狭い範囲から逸脱できるものではない。夢の中で広くて大きな穴を落ちていって、すぐに小さくなって見えなくなる自分を見つめていた。
すべてが悪い方へと向っていて、影ばかりを意識し始めると、急に旅行に出たくなった。
今までにも同じような思いを抱いて旅行に出かけたことが、これほど影への意識が強かったのは初めてである。まったく違った世界へ誘おうとするのも、快感に魅入られた魔力である。
――今なら見えていなかったものが見えるかも――
前しか見ていなかった自分の人生、背中から見つめられる影を意識したことは何度もあったはずなのに、深く考えてこなかった。旅行に出かけて何が見つかるか分からない。だが、自分の中の邪な心が本当に影によるものなのかを確かめることができそうだ。
作品名:短編集48(過去作品) 作家名:森本晃次