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短編集48(過去作品)

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 それまでは、夢を見ても京子との楽しかったことばかりで、目が覚めてグッショリと汗を掻いているのを感じる。掻いた汗はすぐに乾いて気持ち悪い。特に背中がグッショリとなっていて、一気に気持ちを現実に引き戻すには十分な気持ち悪さであった。
 自分の想像力が芸術という形で発揮されるようになるまで、一時期夢で見ていたのは、前に住んでいたマンションの結露だった。内容までは目が覚めるにしたがって忘れてくるのでハッキリと覚えていないが、背中に掻いた汗をそれまでに感じていた夢の印象との違いを感じると、夢を何とか思い出そうとするのも本能からだろうか、それとも想像力の賜物だろうか。
――前に住んでいたマンションの壁に残った結露――
 ガラスに残った結露ではなく、壁にベットリとついていた結露を思い出していた。
 結露が出る壁は決まっていた。
――きっと建設上の問題で、その部分だけが冷たく厚いコンクリートが埋め込まれているような構造になっているのだろう――
 と感じ、いくら拭き取ろうが冬の間は結露で湿気てしまう状態はいかんともしがたい。拭き取るたびに壁には黒い痕が残ってしまう。
――拭き取らなければ、さらにもっと大きな沁みになってしまう――
 と思い、京子は必死で拭いていたのを思い出していた。それは、壁を見つめているのを見る前のことだった。
「何とかならないのかしらね」
 明らかに不快感をあらわにしながら拭いている。新婚時代のまったく愚痴をこぼすことのなかった京子が唯一愚痴らしい愚痴をこぼしていた。
――意外とその時の愚痴を思い出したかったのかも知れないな――
 結露の夢を見ることで、また京子のことを思い出してしまう。今度新しく住むことになったマンションは結露はそれほど激しくはない。結露というのは、新築マンションに激しく起こるもののようだ。
 結露の残った壁の沁みを見ていると、思わず耳を押し付けてみたくなったのは、欲求不満の捌け口をどこに向けていいか分からなかった頃だった。
――なんてバカなことを――
 と思い、その時は自重した。
 離婚してすぐは、
――どうせ恋愛なんてできやしないんだ――
 と思って、女性を見ても何も感じない時期があった。それを感じさせてくれるようになったのが芸術に造詣を深めるようになってからというのも皮肉なものだ。結婚している時は好みの女性がいれば視線が自然と向いていたものだ。しかも視線を向けることが女房公認となっていただけに、見放題だった。
 春樹は遠慮をしなかった。むしろ、露骨に思えるほど見たものだ。遠慮がちに透き見るような態度の方が却って目立つものだと思っていたからだ。そんなところも、結婚した頃の京子も、
「それがあなたのいいところかも知れないわね」
 と言っていたのだから、増長しても仕方のないことだろう。
 だが、離婚して感じるのは、いつまでも同じ気持ちでいてくれたかどうかということだ。
 心境の変化を自らが口にするような女ではなかった。もし、夫の露骨な目をいつの間にか我慢できなくなっていたとも考えられる。特に自分から許しているような恰好になっているので、今さら夫に対して不満を感じているなど、顔に出すことができるだろうか。
 元々無口な京子は、何を考えているか分からないところがあった。だが、それでも相手が春樹の行動パターンや考え方まで熟知していてそれを許しているからうまく行っていたのだ。まるで両刃の剣とも言え、この構図が崩れてしまえば、これほど付き合いにくい相手もいないだろう。それを先に感じたのは京子であって、春樹はまったく気付いていなかった。
――いよいよという時は、京子の方から相談してくれるだろう――
 と思っていたからで、京子が相談してくれれば、きっとそれに対して夫としての毅然とした態度で結論を見出せるような根拠のない自信に満ちていた。それこそ、身の程知らずとはこのことであろう。
 春樹はどんなに綺麗な人がいても、一番は京子だった。家庭を崩したくないという思いもあるが、それよりも京子と一緒にいる時間を、どんなに素敵な女性が目の前に現われようとも超えることはありえないと思っていたからだ。
 もちろん、浮気や不倫などというのは自分の辞書にはないと思っていて、京子にもありえるはずはないと思っていた。京子に不倫や浮気の影はまったくなく、そういう意味では分かりやすいタイプだった。自分の中の深層心理は表に出さないが、隠しごとができない性格はお互いによく似ていたのである。
 離婚してから脳裏に浮かんでくるのは京子ではなく、麻子だった。離婚が頭の中でちらついている時、ずっと京子との楽しかったことが頭の中で浮かんでは消え、
――決して忘れることなどない――
 と感じていたのがウソのようだ。離婚届という一枚の紙切れがこれほどの効力を持っているなど信じられない。
 麻子との思い出で忘れられないのは、最初に麻子を見た時のことだった。
 今までに一目惚れだったのは麻子だけである。顔や雰囲気からどんな女性であるかを想像して好きになるタイプの春樹だったが、第一印象でピンと来たのだ。
――自分を見つめる目――
 それだけで十分だった。
 何かを求めるような潤んだ目。後から聞いた話で、
「麻子さんは、この間彼氏と別れたばかりなのよ。結婚寸前まで行っていたらしいんだけど、可愛そうに捨てられたのよ」
 という話を聞いて、さらにいとおしくなった。麻子の求めるような眼差しと、見たこともない相手の男への嫉妬心とが交じり合って、春樹の中に理想の女性として麻子を作り出した。
 付き合い始めるまでには時間が掛からなかった。だが、男に捨てられてすぐの女はじれったいほど慎重で、壊れやすくなっている。どちらかというとガサツな方である春樹にとって、一番扱いにくい女性だった。
 付き合っていくにつれて喧嘩が絶えない。些細なことで喧嘩になるが、ほとぼりが冷めるとすぐに麻子の方から謝ってくる。それまで付き合った女性と喧嘩になれば、最初に折れるのは必ず春樹の方だったのだが、それよりも早く謝ってくるということは、それだけ麻子の情緒は不安定だったのかも知れない。
 自分の部屋で最初に麻子を抱いてから、麻子の淫靡な雰囲気に飲まれてしまうことが多かった。
 麻子を抱いた時に住んでいたマンション、その時の雰囲気に、離婚してから住み替えたマンションは似ていた。マンションというよりもコーポに近く、起きている時は麻子を思い出し、夢では京子を見てしまう。おかしな現象に、自分が落ちるところまで落ちていく予感があったのかも知れない。
 冬が近づいてくると、不思議なことが起こり始めた。結露が起こった後に残った黒い沁み、結露が起こるわけではないのに、急に現われてきたのだ。
――どうした現象なんだ――
 不思議で仕方がなかったが、気がつけば壁をじっと見つめていた。何かの形に見えてくるのを感じる。
 前の部屋でも同じことを感じた。小さな子供がいるようなくらいの大きさで、沁みにしてはあまりにも大きすぎる。だが、ずっと見つめれば見つめるほど小さく感じてきて、気がつけば人間の顔くらいの大きさまで小さくなってくる。
作品名:短編集48(過去作品) 作家名:森本晃次