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短編集48(過去作品)

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 と春樹もまんざらではない顔で、しかも大袈裟に京子の指差す方向を見つめる。
「おおっ」
 それこそ食いるように見ていたかも知れない。女房公認というわけではないが、おおっぴらな態度は却って爽やかに感じるものではないか。傍から見ていれば「バカ夫婦」に見えるかも知れないが、澄ました顔をして裏では平気で浮気や不倫をしている夫婦に比べれば健全である。
 その頃から京子に冗談で、
「俺は知的変態だからな」
 などと話していた。
「どこを評して知的なんて言えるのよ」
 と笑われるが、変態部分を否定してはくれない。
「むっつりとも、誰の目から見た変態とも違うところでさ。変態だって立派な個性かも知れないぞ」
 と取り繕った言い訳をしていたが、まさか春樹も自分が本当に変態などと思っていないから言えることだった。
 芸術的なことに興味のある春樹が知的と評したのは無理のないことだ。自分では芸術をやらなかったが、絵を見たり、音楽を聴いたりして自分の中で気持ち的な余裕を持ちたいと常々考えていた。特にそれは結婚してから思うようになったことで、一家の主となって自分にそれなりの自信が湧いてきたからかも知れない。
 芸術的な絵画を見ていていつも感じるのは、
――彫刻にしても絵画にしても、古代には裸を最高の芸術と考えていたことが不思議だ――
 裸に対してそれほど興味があるわけではない。だが、恥じらいを持って隠そうとするところを、見たいと思う気持ち、他の人に言えば、それこそ、
「変態」
 と呼ばれるに違いない。
 元々、美術館の雰囲気が好きだった。学生時代に美術の課外授業で美術館に行ったことがあったが、とにかく高級感が全体に滲み出ていて、表とは空気が違っている。贅沢なほどの広い空間に、ポツンポツンと芸術品が展示されている。計算されて置かれているものなのかどうかは分からないが、脱力感を感じるほどの広さである。
 空気は軽く感じる。風もなく、靴音とどこからともなく聞こえるざわめきだけに空気の流れを感じるのだ。
 芸術の何たるかなど考えたことのなかった春樹だったが、美術館の雰囲気だけは何物にも変えがたい落ち着きを与えてくれていた。
 芸術というものが想像力の賜物であることを感じたのも、その頃だった。美術館と同じくらいに静かでゆとりのある空間を感じるのが図書館だった。美術館自体が大きな公園の中にあり、その大きな公園のほとんどは中央にある池だった。
 池を中心に出来上がった公園は、周辺を散歩するもの、ジョギングするもの、そして、一定の距離を置いて設けられているベンチにはいつもアベックで溢れていた。
 池の中央を道ができていて、さながら日本三景の天橋立を思わせる。途中には浮き御堂もあって、風流さを引き立てていた。夏など、ボート小屋のボートがすべて貸し切られるほどの賑わいを見せているのは、今も昔も変わりのないことのようだ。
 図書館は池を囲むようにして、美術館から少し離れたところにある。お互いが池を挟んだ対岸になっていて、歩きながらそれぞれの建物を見ながら歩けるようになっている。麻子と付き合っている頃は美術館が多かった春樹であったが、京子と付き合うようになってからは図書館の方が多くなった。しかも図書館には京子とも一緒に行くことが多かった。それは京子が本好きだったからである。
 好きな本のジャンルはまったく違っていた。ノンフィクションで、エッセイのようなものが好きだった京子に対し、春樹はホラーのような独創性の高い小説が好きだった。本を読むようになったきっかけはミステリー小説であったが、それは中学時代のこと。クラスメイトとの話の中で出てくる探偵の話題に乗り遅れまいと読んでいただけだった。
 内容は結構面白いものだった。
 面倒くさがりやの春樹が本を読むようになるなど、一番ビックリしているのは実は本人だったかも知れない。
 トリックについての話に花が咲くのは、中学時代ちょうどミステリーブームだったからだ。誰もがテレビを見て本を読み、あるいは、本を読んでからテレビを見ていた。会話を聞いていてそれぞれに意見もあるだろうが、結論としては、
「やっぱり、原作の方が面白いよな。テレビ化するとどうしても無理のあるところが出てくるからな」
 皆がその話を聞いて納得していた。だが、本当に納得した人というのはどれだけいるだろう。少なくとも頷いてはいたが、春樹には根本的には納得できなかった。
――どこに無理があるというのだろう――
 それが分かったのは、テレビをビデオに録画してもう一度見た時だった。
――そうか、すべてを映像にしてしまうと、想像力の入り込む余地がないからな――
 本を読んで浮かんでくる光景のイメージが、映像になっても所詮平面を見ているようで、想像しているものとは開きがある。想像力が発揮されると、浮かんでくる光景は立体感である。
 あまり想像力が発揮できないものは、逆のことが起こる。テレビの映像の方がより立体感に近く、想像が平面なのだ。それでも本で読んだ方がいいと思えるのは不思議だった。
 高校に入ると、すでにミステリーブームは消えていた。
 ブームというのもいつの間にか冷めてしまうもので、あれだけ熱狂していたはずなのに気がつけば誰も何も言わなくなったことを気にする者もいない。自分の中でのブームの期間と、実際に世の中でのブームの期間とが一致していることが多いようだ。
 ミステリーが好きだったことに関しては、自分がミーハーだったことを実感させられる。元々、人がすることのマネは好まないタイプだったはずなのに、ミーハーにまんまと乗せられてしまった自分が恥ずかしい。
 高校生になってから、ホラーに興味を示すようになった。実際は怖いものはあまり好きではなく、サイコホラーのようなオカルトに近いものを好んだりはしない。どちらかというと、自然現象であったり、深層心理の中で起こるホラーを題材にした小説を好んで読むようになっていた。
 一番想像力を発揮できる小説であった。恋愛小説、純文学、サスペンスと、いろいろ読んできたが、恋愛小説などのように経験がないとさすがに想像力の及ぶところでない大人の小説を読むには時期尚早だった。いくら想像力を働かせるとはいえ、経験から書かれたものや、自分がこれから体験していくことだと認識しているものへの想像が叶わないことは分かっていた。
 日常生活の中で、誰もが陥るかも知れない裏の世界。そこにはキーワードが存在し、「鏡」、「時間」、「光と影」などと言ったモチーフに対し、主人公の深層心理を抉るような切れ込みの入った小説を巧みに描く作家の作品を読んだ時、
――これこそ大人の小説なんだ――
 と思ったものだ。
――これであれば、難しいに違いないが、映像化できれば自分の想像に限りなく近いものができるに違いない――
 と感じられた。いろいろな発想が許される中、映像になった物語を想像できる自分だからこそ、読んでいて飽きないに違いない。
 小説を読みながら想像することを覚えると、実際に見ているものが本物なのかを疑って見ている自分を感じる。
――今なら小説を書けるんじゃないだろうか――
作品名:短編集48(過去作品) 作家名:森本晃次