短編集48(過去作品)
――気持ち悪いとばかり思っているから、余計なことに気付いてしまう――
一緒に住んでいる京子がどういう意識でこの結露を見ているか、本当に聞いてみたいと感じたことがあった。それは、京子が悩んでいた時のことだった。
結婚してから三年が経っていたが、なぜか子供ができなかった。
「ねえ、そろそろ子供がほしいわね」
結婚した頃には、最初の一年は新婚でいたいので、子供は作らないようにしようという約束があったので、避妊をしていたが、約束の一年が過ぎるとそれを待っていたかのように京子の方から言い出したのだ。
結婚して三年目、絶えず新婚当初を思い出していた。遠い記憶であるにもかかわらず、いまだに新婚生活の延長を続けているように思えたのは、きっと子供がいなかったからだ。子供がいると、どうしても女は子供中心になってしまう。亭主すら大きな子供として扱われることが多いと会社の人からからかわれたこともあった。
子供もいないのに、妻の京子が春樹を大きな子供扱いを始めた。確かに整理整頓が苦手で、いつも女房に任せきり、さすがに、
「あなたもたまには掃除や洗濯くらい手伝ってよ」
と言われて、嫌々ながら手伝ったものだった。
その時に春樹の本性が見えたのかも知れない。本当に嫌なことを嫌々している姿は実によく目立つものだ。何もしない人をイライラしながら見ているのが耐えがたくなったと言っても、実際に手伝ってもらった時、露骨に嫌な態度を取られてしまう方がどれほど辛いものか。その時に京子は思い知ったに違いない。
「もういいわ。あなたは何もしなくても……」
「そうかい。それはありがたいや」
手伝えと言われて、その喉の奥の渇かぬ間に、すぐにやめろと言われては、さすがに投げやりにもなりたくなるというものだ。
その頃から夫婦間に会話がなくなっていった。
会話がなくなっていくことに違和感はなかった。元々余計なことを口にしない京子だったが、新婚時代は無理していろいろな話題を出していたように思っていたからだ。
それは京子に限ったことではなく、春樹にしても同じこと、会話を盛り上げるために、多少の無理があったことは後から考えても否めない。
会話がなくなってくると、京子はあまり家のことをしなくなった。料理も作らなくなり、お互いに外食が増えてくる。仕事が忙しくなったこともあるが、
「今日は表で食べてくる」
という日々が続いた。正直、二人だけの部屋で食事をしていても、会話がなくては通夜のようだ。テレビはついているのだが、お互いにブラウン管に目は行っていても本当に内容を見ているのか分からない。少なくとも春樹は京子が気になって仕方がない。
会話がなくただ隣にじっとしているだけの存在というのが、これほど気になるものだとは思ってもいなかった。
今までは正面からの熱い視線が瞳を濡らしていたのに、今では横顔しか見たことがない。もっとも、正面から目を見て話すことが大切であることを知っていたつもりである。それだけに正面から向き合うことの怖さ、そして横顔が物語っている重たい空気の息苦しさの両方を味わっているようである。
仲が悪くなると後は早いもの、意識は表に飛んでしまって気がつけば、春樹は新婚当初のことばかりを思い出すようになっていた。
――京子も意地を張っているが、結局は楽しかった頃のことを思い出して彼女の方から話をしてくれるはずだ――
と思っていた。
だが、実際にはそうでもないようだ。
「女性から折れるというのは、男性がその気にさせないと折れないものですよ。それが会話の中のふとした優しさだったり、相手を思いやる気持ちだったりするんです。お互いに意地を張っていても、女性からは決して折れたりしないものですよ」
会社で愚痴るのは嫌なはずなのに、一度後輩の女性と呑みに行ったことがあり、その時に聞いた話だった。
別に不倫を考えているわけではない。春樹には不倫願望がないわけではないが、新婚当時のように仲のよかった頃には考えられるはずもないし、また、ギクシャクしてしまった今は逆に新婚当時の楽しかったことが走馬灯のように頭を駆け巡っていては、不倫という考えが入り込む余地もない。ただ話を聞きたかっただけだ。
「そんなものなんですか?」
「ええ、そうね。でもそういうところが先輩の魅力と言えば魅力なんだけど、奥さんとよりを戻したいと思うのなら、早めに話をしてみることだと思いますね。女性って、男性が考えているよりもずっと現実的なんですよ。先輩のように過去の楽しかったことを思い出してくれるだろうって思う男性は多いのかも知れないけど、女性はそんなことはないの。一旦気持ちが変わってしまえば戻すのは大変なことなのよ」
彼女の話を聞いていて分からなくもない。思わず何度も頷いていた。
「女性ってね。ギリギリまで我慢するんだけど、我慢できなくなれば、これほど冷たいものはないわ」
そういえば、無口な京子に対して春樹は何も言わなかったのは、
――もし何かあれば京子の方から言い出すだろう――
という気持ちがあったからだ。言葉に出す時はすでに自分の中で決意が決まっている時、それが京子だと思っていた。
これが離婚の理由のすべてだとは言い切れないが、少なくとも最大の理由であったことは間違いない。そのことに気付いた時はすでに遅く、話しかけようとしても、相手は貝のように口を閉ざしてしまっていた。
――ギリギリのところまで我慢する――
という、「ギリギリ」を超えてしまっていたのだ。
その頃から京子が結露の沁みを気にし始めた。その目にはいとおしさを感じることがあるが、まるで子供ができない自分を責めているようである。そのたびに、沁みが大きくなっているように思えるのは気のせいだろうか。あまりにも集中しているので、沁みを気にしている京子を傍から春樹が見ているなど、きっと知らないに違いない。
以前は人見知りするタイプの京子も、春樹だけには本音を話してくれた。好きなことを言い合ってきた仲だけに、会話がぎこちなくなってしまうと、これほど一緒にいて辛いこともない。京子が一番身に沁みていたに違いない。
離婚までにはかなりの時間を要した。
「離婚って結婚の時の数十倍体力気力を使うものだからな」
と離婚経験者から聞かされていたが、
「そんな大袈裟な」
と言って話半分しか聞いていなかったが、実際に冗談ではない。自分が何をやっているか分からないほど精神的に麻痺してしまうことも多く、どうしても楽しかった頃のことが脳裏を離れない。それが体力気力を擦り減らす一番の要因ではなかっただろうか。
結婚していた時は実に真面目な既婚者だった。巷やまわりから聞こえてくる不倫や浮気の話も、
――自分とはまったく関係のないところで起こっていることなんだ――
と思っていた。
確かに綺麗な人が近くを歩くと気になって見返すことは多かっただろう。しかも無意識にである。それくらいは男の本能として許容範囲であった。
京子も、そんな夫の男の部分は分かっていた。分かっていて茶化していたくらいで、
「ほら、彼女なんてあなたの好みでしょう?」
と声を掛けられ、
「どこどこ?」
作品名:短編集48(過去作品) 作家名:森本晃次