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短編集48(過去作品)

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 緊張しているわけではないのに、胸の鼓動が鳴り止まない。腕を組んでいると肘が京子の胸に当たるが、京子の胸にも鼓動を感じる。その度に、京子が強くしがみついてくるのを感じることで更なる興奮が春樹を包んだ。
 部屋に繋がる扉に手が掛かる。まわして中を開けると、香水のような香りが漂ってくるようだ。しかし、それは一瞬のことだった。すぐに中に入ると、匂いは消えてしまっていた。
――だから思い出せないのかな――
 一瞬で消えてしまった匂い、どうしてなのだろうといつも感じていたように思うが、部屋に入ってからは、興奮が最高潮に達し、細かいことまで頭が回らない。
 部屋に入ると違う時間が流れている。抱きしめて優しくキスをしているつもりでも、いつの間にか激しいキスに変わってくると、静かな部屋には京子の吐息だけが響いている。
 感情もドキドキも最高潮。ベッドに倒れこませると、後は衣服を剥き取りながらお互いの身体を貪っている。身体を一つにしたいという願望を、お互いの気持ちを一つにすることで叶えようという行為、それにまい進するだけだった。
――京子って素直で可愛いんだ――
 どんなに化粧が濃くても、妖艶な雰囲気を醸し出していても、ホテルの中で身体を重ねれば、その瞬間は化粧などしていない素朴な京子を見ることができる。
――ひょっとして、これが見たくて彼女をほしいと思うのかも知れない――
 と感じる。
 遠くで甘えるような声が聞こえるが、まるで幻のようだ。とにかく快感を貪ることで必死になっている自分がいるのだ。
 彼女の中で果てた後の脱力感を彼女の纏わりついている身体で感じている。脱力感を感じると意識が朦朧としているので、後から思い出そうとしてもなかなかその時の心境に至ることは難しい。だから我に返ってしまい、結婚相手として考えることがなかなかできなかったに違いない。
 ホテルで感じた匂い、それがそのまま京子のイメージになっていた。ドライブに行った帰り、必ずホテルに寄る。いつも同じホテルではなく、構造も雰囲気も違うことが多いが、匂いや感情に差はなく、いつもと同じ興奮を与えてくれる。
 それは京子にしても同じであろう。ホテルの部屋にいる間だけ、お互いの時間が止まってしまっているかのようだ。表に出てきてから感じる脱力感の激しさが、時間の流れを感じさせなかったことを意味していた。
 ホテルにはそんな魔力があるのだ……。
 ホテルに初めて入ったのは京子が最初ではない。最初は麻子とだった。だが、麻子とはホテルに入ったことは数回しかない。ほとんどは、春樹の部屋でだった。春樹が京子と最初に身体を重ねたのがホテルだったのは、麻子の雰囲気が残る部屋で、誰かを抱きたくなかったというのが本音であった。
 一人でいることの多い部屋で、最近夢を見る。思い出すのは京子ではない。また麻子というわけでもない。まったく知らない女性が自分の部屋で待っていて、食事を作ってくれているのだ。
 自分の部屋……。確かにこの部屋である。だが、何かが違っているのを感じるが最初はそれが何か分からなかった。
――空気の重たさ――
 冬になると乾燥してくるが、マンションというのは耐寒設計をしてあるので、至るところで湿気を帯びている。窓には結露はできて、頻繁に気にしてガラスを拭いていなければカーテンがすぐに駄目になってしまう。引っ越してきて最初の冬は、見事にカーテンを一式駄目にしてしまったことがあったくらいだ。
 加湿器を入れておかないと乾燥した空気で喉をやられてしまう。元々扁桃腺の熱には小さい頃から悩まされてきた春樹であった。加湿器は必需品である。
「結露は本当に相当ひどいわね」
 結婚してから今日は初めてマンション住まいとなった。一軒家でも結露があったのだろうが、意識することはなかったというので、きっと母親がずっと気にしていたのだろう。
 ウンザリした顔で結露が滲むガラスを拭いている。拭いても拭いても消えない結露にさすがの京子も諦めの境地があるのか、次第に結露で愚痴をこぼさなくなってきた。
 ただ、湿気だけは意識しているようである。
「何となく空気が重たいようだわね」
 ポツリと漏らした言葉だったが、素直に頷いていた。春樹も同感だったからだ。
 いつも素直な京子に戻ってくれたのは嬉しく感じたが、考えてみれば結婚してから見えなかった京子の違った一面が数知れず見えてきた。それは京子にしても同じことだろう。
 見えなかった部分というよりも、見ようとしなかった部分なのかも知れない。それは離婚してから感じたことだった。
 実は結婚している時の方が見ようとしなかった部分が多い。結婚してからそれまで見えなかった部分が見えてきたはずなのに、それでも十分ではなかった。それは見ようとしなかったからであり、その時にしっかりと見ていて自分の中で納得していれば離婚などということは起こらなかったと感じる。
 壁に残った新婚当時からある結露。それを見るたびに見えていたはずのものを見ようとしなかった自分を感じる春樹だった。
 濡れ滴っている壁を見ていて感じる。
――何となく淫靡な気持ちになるのは気のせいだろうか――
 じっと見続けていると、興奮してしまう自分がいる。もう一人の自分の存在に気付いた瞬間でもあった。
 しかしまた、その結露は人の形にも見える。成人男性ほど大きくないが、ちょうど小学生がスッポリと入るくらいの大きなもので、部屋を薄暗くしていたら、これほど気持ち悪いものはないはずである。決して春樹は部屋を薄暗くしたことはない。気持ち悪さを感じたくないからだ。
 この影のことは京子には黙っていた。結露による沁みのことは分かっていたはずだが、それが何に見えるかということを言及したことはない。ずっと一緒に暮らしていこうと思っていた相手にわざわざ気持ち悪いと感じていることを話すまでもあるまい。
 だが、京子と離婚して、京子がこの部屋を出て行ってから、無性に結露が気になり始めた。京子と一緒に住んでいる時も気にはなっていたのだが、一緒に暮らしていて、なるべく気にしないようにしていたのは、相手に対しての気遣いで、当たり前のことだと思っている。ただそれだけだった。
「京子がいなくなってから、京子がいた時に気になっていたことを思い知るなんて皮肉なものだ」
 気にしないように思っていても、余計に気になるものもある。しかもそれが環境が変わることによって気付くということも往々にしてあるようで、一人になって余計に気持ち悪く感じるはずなのに、二人で暮らしていた時の方が気になっていたように思うのはそれだけ京子に対し必要以上に気を遣っていたからだ。
 得てして気を遣いすぎると相手に対し、疑心暗鬼を起こさせることになる。ハッキリとした意思表示をしないと、余計なことを考えてしまい、あることないこと勘ぐってしまうことにどうして気付かなかったのだろう。京子もこの沁みを気にしていて、気にしないようにしている春樹の些細な態度の変化が、大袈裟なものに感じられたのかも知れない。
――この結露、毎年大きくなってくる――
 計ってみたことはないが、小学生が中学生に上がるかのように成長しているのだ。
作品名:短編集48(過去作品) 作家名:森本晃次