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短編集48(過去作品)

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結露と影



                 結露と影


 春樹にとって幾度目の旅行になるだろう。しかし記憶が浅いようで深い、本当に自分の記憶なのかという疑念さえある。そんなことを感じながら旅立ったのは、まだ寒さを感じる二月の終わりであった。
 限りなくグレーに近い空を車窓から眺めていると、田舎の風景から一点、海岸線に出てくる。水平線との境目も分からぬほどのグレーさは、今の春樹の心を写しているかのようだった。
 海は比較的穏やかだ。波も高くなく、雲の切れ間から時々差し込む太陽に照らされた水面は、適度に瞬きを見せている。
 瞬きは白ではなく銀色に光っている。鈍色と言ってもいいかも知れない。あまり強い光ではないと感じるのは、すべてを吸い込んでしまいそうなグレーという色が見せる幻影である。
 幻影は今の春樹の気持ちを物語っているようで、出口のないトンネルの出口を探そうと出かけたはずの旅なのに、所詮見るのは鈍色の光、気がつけば光から目を離せなくなっていた。
 もっともまわりを見ても吸い込まれそうなグレーが広がっているばかり、どこに視線の焦点を置いていいか分からない。それであれば、結局視線は鈍色に光っている海面に向けられることになる。
 光があると、影がある。影のあるところには光がある。
 頭の中が半鐘を繰り返す。まさしく自分の中に光があって影のあることを思い知った今、自分がどこに行こうとしているのか分からないが、どちらの自分が導いているのか、気持ちに従うだけだった。
 今の春樹にはそれしかない。どこに行こうと、見えてくるのは光と影なのだ。目の前に広がる鈍色の光がそれを証明している……。

 人生を転げ落ちるのがこれほどあっという間であると感じたことは今までになかった。転げ落ちるきっかけになった時が一番辛かったはずなのに、その頃はまだしっかり考えなければならないという意志が働いていた。
 春樹には一度結婚暦がある。結婚している間が今から思えば一番人としての幸せを実現できると思っていた時期であった。
 仕事を終えて帰ってくる。マンションの扉を開ければ暖かい空気とともに、食欲をそそるまろやかな香りが漂っている。芳しい香りを抜けて部屋に入ると、最愛の女性がエプロン姿で待っている……。それこそが人の幸せ、ささやかではあるが、平和でこれ以上望んではいけない幸せなのだと確信していた。
 思い出すのは新婚時代のことばかり。交際していた頃がまるで別の女性だったのではないかと思うのは、結婚と恋愛は別物だと思っていたからである。実際に好きだった女性は他にいた。麻子というその女性と付き合っていたが、結局相手が違う男性と結婚することになったので、やむなく別れてしまい、別れてから本当に好きだったことに気付き後悔したが、それは後の祭りだった。
 好きな女性を頭に抱いたまま、妻になる女性と付き合い始めた。名前を京子というが、京子は実に献身的な女性だった。誰から見ても、
「結婚するなら京子さんのような女性だ」
 と言うに違いない。もし春樹が他人であったらきっと同じことを言うだろう。
――本当に好きな女性麻子の存在がなかったら――
 と考えたこともあったが、京子という女性の魅力は近づきすぎていては分からないところがあるのかも知れない。
 正直、京子との交際期間中、結婚について考えたことはほとんどなかった。もし、京子から、
「私、あなたと結婚したいと思っているんだけど、あなたはどうなの?」
 と言われなければ、そのまま交際だけを続けようと思っていたかも知れない。実に自分にとって都合のいい考えであるが、決断力に欠けるところも春樹の悪いところだった。
 年齢を重ねるごとに、決断力が落ちてくる。それは仕事においてもありうることで、最終決定をしかねることがたまにあった。会社では真面目にコツコツ勤めているが、決断力のなさに疑問点を感じる上司も多く、それが出世を遅らせることにもなっているのだが、それでもコツコツ派の人間が必要な現在のポストにおいて、彼の存在はなくてはならないものだった。
 結婚してからの京子は実に献身的に振舞ってくれた。
――結婚してよかったな――
 もちろん、麻子の存在を忘れたわけではない。だが、他の人のものになってしまった麻子に対してのイメージが急激に薄くなってきたのも事実で、自分の人生について真剣に考えたならば、京子を選択したことは間違いではない。
 幸せな結婚生活が続いていた。結婚したことで、今まで自分に自信を持つことができなかった春樹にも、
――俺のような男にだって、結婚できるんだ――
 と思ったからである。結婚しなかったのは、結婚しようと思えるような相手がいなかったからだと自分で思い込んでいただけで、結婚ということに自信がなかったのだということを結婚してから気がついた。
 京子が献身的な女性で男性に尽くす女性であることは分かっていたが、果たして家庭的な女性であるかというと、春樹の目から見て、そこまでは感じていなかった。
 化粧が上手で、男好きのする顔、そして、何よりも床上手だと思っていた京子が、春樹のような平凡な男性と結婚しようなどと思わないはずだと感じたからだった。
 恋愛するには最高の女性なのかも知れない。だが、本当に好きだった麻子を頭の中に残しながら付き合っていた京子、麻子はどちらかというと化粧をしていない時の方が綺麗で、素朴さが一番の魅力だった。たまに化粧をすることがあったが、その時に感じた艶やかさは普段から化粧を施している女性には見られない美しさであった。
 その頃からだっただろうか、匂いというものを意識するようになった。
 恋愛している時も匂いを感じ、意識したことがあったが、それを思い出したのは結婚して、暖かい家庭に包まれていると感じてからだった。一人の部屋に帰ってくると、感じる部屋の冷たさには、セメントのような嫌な臭いしか感じたことはなかった。
 結婚生活での甘い匂いは、マンションの冷たい扉を開いた瞬間に漂ってくる京子が作る料理の温かい芳しさだ。結婚してすぐに、マンションの扉を開く時は、違うイメージを抱いていた。
 それは淫靡なイメージである。
 結婚前、京子と付き合っていた時、お互いの身体を重ねたのはほとんどがホテルでだった。ドライブに出かけ、その帰りに道なりに見える妖艶なネオンサインに触発され、戸惑いながらも何度となくホテルへとハンドルを向けた。
 いや、本当はホテルという雰囲気が淫靡で、その雰囲気を味わいたいからだと思う。どこか秘密めいていて、そこがお互いの気持ちを高揚させる。
――どうしてここまで気持ちが高揚するのだろう――
 春樹は不思議に感じていた。部屋を選んで狭いエレベーターに二人で乗り込む。エレベーターの中の明かりさえも紫掛かっているところが多く、暑くもないのに、汗が出てくるのを感じるほどだった。紫色が淫靡な気持ちを高めるのだと今さらながらに感じているが、まさしくその通りで、色も気持ちに与える重大な要素を担っている。
――五感を刺激する興奮――
 それを望んでいたに違いない。
作品名:短編集48(過去作品) 作家名:森本晃次