短編集48(過去作品)
「そうですね。人の足音で複数の入り乱れた音が聞こえてくると、恐怖心を感じます」
潤子はその話を聞いて、自分にもあるトラウマを思い出した。
「私は逆なんですよ」
「逆というと?」
「複数の人が規則的な足音でやってくるのを聞くと恐怖心に駆られてしまうんです。集団で襲ってくる感覚があるように思われるんですよ。それに足音ではないんですが、窓ガラスに打ち付ける激しい風の音にも恐怖を感じます。時々すきま風が開いているのではないかと思えるほどの、ピュ―ピュ―という音、あの音も怖いですね」
「まるで嵐の夜に迫ってくる軍隊のような感じですね。実際にはありえることではないので、子供の頃に見た映画かドラマがトラウマになっているのかも知れませんね」
「そうですね。夢というのもありますかね?」
「夢というのは潜在意識が見せるものだといいますから、何かきっかけになることでもなければ、見ることはないとおもいます。やはり夢だとすれば、夢を見せるだけの潜在意識を植え付ける何かがあったからなんでしょうね」
子供の頃の記憶、最近は曖昧になってきている。
特に就職してからは、まったく違う自分が生まれたような気になっているので、子供の頃の意識は自分にとって前世のようなものである。それを思い出そうとするには、時系列で並べてみるのは不可能に近いだろう。
だが、どこかに記憶として残されているのは事実だ。子供の頃の自分を知っている人の方が、自分よりも子供の頃を知っているのではないかと思えるほどで、小さい頃の記憶は夢が見せる潜在意識でしか見ることができないと思い込んでいた。
次はいよいよ衣装に着替える時だった。
席を立つと最初に感じた広さは元に戻っていた。
――鏡の魔力かも知れないわ――
鏡というのは、虚像を写し出すものである。実際にあるものを表現しているに違いないのだが、圧倒的な違いは、鏡に写ったものは平面であるということだ。
確かに同じものであっても、平面であれば当たり前のことで立体感がない。ないというよりも麻痺しているというべきか。
では、平面と立体の違いとは何であろうか?
じっくり考えてみると、立体には色がハッキリしていて、影がある。当たった光が反射して目に入ってくるから、遠近感もしっかり分かって、それが立体感を表わしているのである。あくまでも光の当たる角度なので、同じ景色であっても、光の強さによって微妙に距離感が違ってくるのかも知れない。
それでも実際に目に入ってくる明るさは分かるので、無意識に明るさを認識することで、ハッキリと大きさや距離を認識できる。それが人間の本能になるのであろう。
鏡に関しては必ず鏡という平面を通してしか見ることができない。光の強さが分かっていても、同じ屈折なので、錯覚を起こしやすい。しかも、鏡が平面だということを理解しているので、結局は虚像を見ているという意識が働くのが一番錯覚を起こさせやすい要因に違いない。
さっき見た夕凪を思い出していた。夕凪も光の加減によって錯覚を起こさせる。空気中の塵が屈折を変えてしまうことだという意識があるので、鏡を見ている感覚に近いものがある。
――鏡を見ていて、何か同じような感覚に陥ったことがあると思ったのは、毎日のように過ごしている夕凪という時間帯なのだわ――
と感じるに至った。
鏡に写った景色に関していえば、左右対称で、まったく正反対のものを映し出している。それを考えると、すべてのものに表があって裏があるのではないかと考えてしまう。左右があって裏表があって、光があれば影がある。衣装を身につけながら、そんなことを考えていた。
「なかなかお似合いですわ」
気がつけば手際よいコーディネーターの手腕によって、綺麗に着飾られた自分が鏡に写っている。
「これが私?」
「ええ、あなた様ですわ。これを身につけられた方皆様、最初はビックリなさるんですよ。この衣装は新しい自分を発見するために考案されたもので、身につけられた方、それぞれに違った印象をお持ちになるようですよ」
着る前に見た色とは若干違って見えている。より原色に近づいているように思えて、艶やかなのには変わりないのだが、シンプルさが滲み出ているようで、ハッキリと色の違いを見せ付けているようだ。
赤いところはとことん赤く、青いところはとことん青く。そんな色合いに自分の身体が少しずつ大きくなっていくように思えた。
――これも鏡の魔力かしら――
鏡は近くのものを大きく見せ、さらに遠いところにあるものも、奥深くまで見せ付けるように思える。
鏡の前に佇んでいる潤子が次第に大きく見えてくるのは、やはり鏡の魔力のせいに違いない。まるで自分の身体が大きく見えてくるのが最初から分かっていて、それで鏡のことを考えていたのではないかというような錯覚まで起こってくる。
鏡に向ってニッコリと微笑んでみる。
小さな顔がニコヤカに微笑んでいるが、果たして今映し出された自分の表情なのだろうか。よくよく見てみると、自分の顔ではないようにも感じられた。さっきから見ていると衣装には綺麗に光が当たっているのに、顔だけが逆光になっていて、影だけが浮かんでいる。
次第に光が顎の方から上に上がってくる。笑顔を浮かべてから少しずつ上がってくるのだ。
果たして浮かび上がった顔は自分の顔であるが、微笑んだ時の表情がハッキリ分からなかったのが気になっていた。
もう一度微笑んでみる。
今度は完全に自分の顔を映し出している。最初に感じた自分の顔が鏡に映し出されている。
だが、次第に明るさに慣れてきたのか、また影が襲ってくる。自分の顔を見ることができたのは一瞬だった。しかも今度は先ほどの影が衣装にも掛かってくる。綺麗に見えていたイメージを頭の中に残したまま、衣装室を後にした。
衣装室を出ると、さっきまで感じなかった衣装の重たさをずっしりと感じるようになっていた。
最初に身につけた時も感じたが、鏡に写っている自分に意識を集中させていると、その意識が薄れてきた。
文金高島田と違って頭にかつらをつけているわけではないのに、頭が重たく感じられた。帽子をかぶっていると、実際にはそんなことはないのに、締め付けられるような思いに陥ってしまう時に似ている。
さっきまでの衣装室を思い出していた。
部屋を出る時に、もう一度部屋を見渡したが、最初に入った時のような広さはなかった。鏡に写った部屋を感じた時に、完全に部屋を虚像だと思い込んでいたのを、最後に元に戻したのかも知れない。
部屋全体の明るさも、やはりあまり明るいものではなかった。だが、部屋を出て行く時、かすかに影を感じた。鏡の前にまだ何かがいるように感じたのだ。
それは茶色い色で目立たない色。嫌いな色ではないのだが、実際に一番身につけたくない色であることには間違いない。その意識を持ったまま、潤子はパーティ会場へと歩を進めていたのだった。
気持ちは完全に高ぶっている。衣装を身につけ、普段しない化粧を施しているのだ。しかも自分の手に寄るものではなく、コーディネーターに任せた自分。まわりからどのような反響を受けるか楽しみである。
作品名:短編集48(過去作品) 作家名:森本晃次