短編集48(過去作品)
「こんな時間を夕凪っていうんだ」
夕凪という話を聞いたのはいつのことだっただろうか。つい最近だったかのようにも思うし、子供の頃だったようにも思う。しかも誰から聞いたのかすら、覚えていない。
さらに、交通事故が多い時間、そして、悪魔が降りてくる時間としての話を聞かされた。そのどちらも違う人からの話しで、どちらが最初だったか覚えていない。ただ、悪魔という空想的な話であるだけに、子供の頃だったように思える。
風のない時間が夕凪であり、夕闇が迫ってくる時間が夕凪である。片方には夕日が沈む赤が残っていて、片方からは夜のしじまが迫ってくる。
光が当たる角度が鋭角で、さらに光が薄い状態である状態では、色を映し出すことは難しい。空気中に浮遊する無数の塵が、レンズの役目を果たしているのだから、光が薄ければ当然、色は浮き上がってこない。そんな状態なので、交通事故が起こりやすいのは当たり前である。
昔の人も色があるのが当たり前、夕凪に風が止まり、色が失われてしまっては、まるで悪魔が降臨してきたと考えるのも不思議ではない。ひょっとして摩訶不思議な現象が現れるのも、この時間が多かったのかも知れない。
耳鳴りが聞こえてくる時間でもあった。子供の頃には、よく夕暮れの時間に耳鳴りを感じたものだ。だが、今ではラッシュの時間、騒音が一番激しい時間だといっても過言ではない。
ホテルへ着くと、ロビーは賑やかだった。表から見ている佇まいよりも中に入るとさらに広く感じられる。ロビーの天井も高く、空洞になっているようで、さっきまでなかった風を建物の中で感じられた。
その日はたくさんのパーティがあるようで、最初から綺麗なドレスに着飾った女性が往来している。
すっかり馴染んだ雰囲気に少したじろいでしまった。
――このまま帰ってしまおうかしら――
元々が華やかな場所が苦手なだけに、臆する気持ちはどうしようもない。一気に噴出してきてしまいそうな汗を額に感じていた。
「三宅さん」
出版社の人に見つかってしまった。もう逃げるわけには行かない。
彼女はシックなビジネススーツで身を包み、いつもの自分を見ているような気がしてきた。
「今日は素敵な衣装を着るんでしょう?」
「どうしてそれを?」
「さっきロビーにあなたの衣装が届いていたわよ。着付けの人も一緒にね」
時間の指定をしていなかったので、こんなことになるかも知れないと思っていたが、やはり先に知られてしまったのは恥ずかしい。
「じゃあ、また後でね」
と言って、彼女は踵を返して、パーティ会場の前で今度は他の人と話し始めた。さすがに社交的なところは見習いたいと思っているだけのことはある。
気を遣ってくれたのかも知れない。他の人と話しながらでもチラチラとこちらの様子を伺っている。今度は潤子が踵を返してロビーまで行き、衣装さんを探した。
「三宅様、こちらでございます」
更衣室も完全な個室である。衣装を着替えるための部屋がいくつも用意されているわけもないので、結婚式の時には花嫁、花婿の控え室になっているのであろう。
控え室というと、テレビ局の控え室などがテレビドラマで映し出されるが、イメージそっくりの部屋に驚いた。中に入るとたくさんの鏡があって、その奥には衣装をたくさん掛けるところがあった。その部屋に衣装を着付けてくれる人が一人待っていた。
何しろ一世一代の贅沢とも思えることである。時間も贅沢に使いたい。
潤子はお金の使い方には、他の人と少し違ったイメージを持っている。
贅沢だと思えることでも、それが頻繁なことでなければ、それほど贅沢にも思わないのだ。一ヶ月単位、一年単位で、大体の小遣いを考え、その中でどれだけのウエイトを占めるかが大きな問題となってくる。
たとえば美容院代、一ヶ月半か二ヶ月に一回のペースで行っているが、二ヶ月のペースが少ないものだと考えるならば、少々のオプションは贅沢ではない。一日百円の節約で、二ヶ月経てば六千円だと考えれば、二ヶ月に一回の六千円は、さほどの贅沢ではないだろう。
もちろん、金銭感覚の違いもある。だが、お金という数字の単位で計れるものは、一つ共通の感覚さえあればさほど違いはない。他の人がどのように考えているか分からないが、一度聞いてみたいものだと思っていた。
――ケチと節約は紙一重――
長所と短所のようなものであって、その人の感覚によるものではないだろうか。今からしようとしていることが贅沢に当たらないと思うのが、精神的な気分転換に当たることになるだろう。
綺麗な衣装を壁に掛け、まず衣装を身に纏う前に化粧をする。それが潤子の考えていたやり方だ。
本当であれば逆かも知れないが、なぜか潤子はこだわった。鏡の後ろに写る衣装を見ながら化粧が施されていく。そのことに一種の快感を覚えていた。
衣装の後ろにカーテンがある。表は薄暗かったので、カーテンが気になるはずなどないのだが、カーテンが見えてしまうと、部屋が急に広くなってくるのを感じる。
衣装が自分から次第に遠ざかっていく。最初は手を伸ばせば届くほどの距離だったのに、どんどん遠ざかっていくのだ。カーテンを意識すると今までであれば部屋全体が狭まった感じがして、閉所恐怖症に襲われるのだったが、今回は逆に広がっていくことへの恐怖を感じる。
――どちらが気持ち悪いだろう――
閉所だと、呼吸が落ち着かなくなる。汗が滲み出し、焦りが襲ってくるのだ。呼吸困難がパニックを引き起こしているといっても過言ではない。
では、広く感じるとどうだろう。やはり、呼吸は平常ではない。ただ、今回は空気が薄くなってくるのを感じるのだ。
同じ空気の中で、部屋だけが広がっていけば当然空気も薄くなる。無重力の宇宙空間すら思い起こさせるような、そんな感情に陥ってしまう。閉所恐怖症とは違った不気味さがあるのだった。
だが、その感覚も一点を見つめているから起こることだった。
少し身体を動かしてみれば、その感覚は薄れてくる。かなしばりに遭ったような感覚がほぐれてくる。
――衣装ばかりに気を取られているからかも知れない――
衣装以外にも気を遣い始めた。
すると今度はカーテンが気になってくる。カーテンが気になってくると、襲ってくるのは閉所恐怖症、今までに何度も感じていた気持ち悪さがよみがえってくる。
呼吸困難に陥ると、汗が滲んでくる。
「大丈夫ですか?」
コーディネーターの女性が声を掛けてくれた。
「ええ、大丈夫です」
うまいタイミングで声を掛けてくれた。もし、このまま声を掛けてくれなければ、貧血状態に陥っていたことだろう。
「顔色が悪いですよ」
「時々なるんですよ。閉めきった部屋にいる時って、そうなんですよね」
「私もその経験はありますね。子供の頃だったかしら、電車の切符を買うのに列に並んでいたんですが、何かのイベントが終わった後らしく、後ろからたくさんの人が押し寄せてきたんですよね。その時に勢い余ってその場に倒れこんだんですが、誰も気がついてくれなくて、しばらく誰とも知らない人たちの足元でずっと泣いていましたよ。今思い出しても気持ち悪くなります」
「それってトラウマなんでしょうね」
作品名:短編集48(過去作品) 作家名:森本晃次