短編集48(過去作品)
きっと聡子も同じではないだろうか。漠然としているというよりも、どこか一つの不一致を考えると、そこから広がって、根本的なことを見つけることができないまま、お互いにすべての性格を比較してみるところまで遡ってしまうように思う。それがハッキリとしない理由だとしか説明できない。
聡子にそれ以降潮の匂いを感じることはなかった。初めて抱いてから何度も身体を重ねているが、潮の匂いを感じることができない。
――感じられないから物足りないのかな――
まさか、あれほど嫌っていた潮の匂いをいつの間にか好きになってしまったのではあるまいか。
タバコだって、喫煙者のほとんどは最初むせ返って、
「どうして大人はこんなものを吸うんだろう」
と言いながら、気がつけば禁煙するのに半端ではない苦労をしているではないか、気がつかない間に感情が変わってしまうということは往々にして少なくはないはずだ。それも自分の生活の中で大いに影響の深いことに多いのではないだろうか。敏郎は聡子との別れだけに気を取られないようにしようと思い始めていた。
就職してからしばらくは、女性に気を取られることはなくなった。仕事を覚えるのに必死で、特に研修期間中は世俗と切り離されたような生活だったからである。
戻ってきて、現場での研修は、それほどきついものではなかった。むしろ、集中研修の間に、現場での仕事を待ちわびる気持ちになっていたくらいだった。仕事への意欲が強かったのと、集団研修のように、あまりにも精神論の多い内容は、却って焦りを呼ぶようで最後の方は耐えられないものがあった。
就職してから一人暮らしを始めたが、マンションの近くにある田代坂には、一方ならぬ意識があった。
元々坂に対しては意識があった。付き合ってきた女性に対して坂のイメージがあったからである。風俗だったが初めての女性の店が坂の下にあったからかも知れないが、坂の下には、何か自分の知らない世界が広がっているというイメージが頭の中に焼きついている。
就職して半年経った頃だった。仕事にもやっと慣れてきて、精神的に余裕が出てくると、通勤路の近くにある喫茶店に寄るのが恒例になっていた。
その店は田代坂を下って、少し入った路地にあるのだが、常連が結構いる店だった。朝食はいつもそこのモーニング。早朝の七時より空いているので、出勤前のモーニングサービスにはありがたい。
常連客が多いようで、店内に流れるクラシックが出窓に置かれている観葉植物とあいまって落ち着きを与えてくれる。
その店でアルバイトをしているのが、悦子だった。初めて見た時の彼女がしていた真っ赤なエプロン、原色が好きな敏郎には、朝日に照らされた真っ赤な色がとても眩しく見えた。
顔までが赤く見えてきて、表情全体に恥じらいを感じられるところが次第に悦子を気にし始めることになったのだが、最初こそ注文とその受け答えだけだったのだが、決して声質の高くないハスキーな声に真っ赤なエプロンがアンバランスに感じられた。
だが、話を重ねるうちに、ハスキーな声に真っ赤なエプロンが似合って見えてきていた。真っ赤な色が情熱的で表に出る色だと思っていたが、彼女を見ているうちに違う感情が芽生えてきていた。
内に込めた感情が見えてくるのは、真っ赤な色が気持ちを吸収しているように感じられるからだろうか。
朝日を浴びてエプロンに映えるように真っ赤に染まる顔、羞恥を感じているその表情に敏郎は、一目惚れだったのかも知れない。
今まで、一目惚れなどしたことはなかった。知り合っても相手を好きになるまでに、好きになるだけの理由がなければ感情がこみ上げてくることはなかった。
冷静だったと言えなくもないが、それよりも、自分の気持ちに切り込んでくるようなそんな女性がいなかったというのが真実であろう。
悦子を見た時、幻影を見ていたかのように、表情がハッキリとしていなかった。まるで後光が差しているかのようなシルエットを感じていたのは、朝日の影響と真っ赤なエプロンによるものだっただろう。
一週間もすれば、自分から話しかけるようになっていた敏郎に、悦子は表情を変えることなく答えてくる。
――俺に対して特別の感情を持っていないのかな――
と感じた。
今まで出あれば、友達以上に感じることをしなかっただろう。だが、それでも彼女には特別な感情があった。その時に、
――これは一目惚れだったんだ――
と初めて気付いたのだ。
一目惚れだと気付くと、悦子に対しての視線が少し変わってきたようだ。悦子の方でも敏郎の視線を意識し始めていた。面と向っての表情に変わりはないのだが、敏郎が表を見ている時など、悦子の視線を感じていた。それだけ敏郎も悦子の視線には敏感になっていたのだ。
仲良くなるまでには、それほど時間は掛からなかった。お互いに意識し始めれば、そこは距離があっても、二人だけの空気が支配している空間がある。それにお互いが気付けば、後は会話だけであった。
会話を始めるきっかけは思わぬところからだった。
店で彼女を意識し始めて二週間ほど経ってから、表でバッタリと出くわしたことがあった。駅前でちょうど彼女が買い物をしている時で、敏郎は帰宅途中だった。
夏の暑い日で、まだ夕日は沈んでいなかった。影は果てしなく長く伸びているように見えるまだ暑さの残った夕方だった。
朝日と違ってオレンジ色に近い夕日は、真っ赤なエプロンと違った雰囲気を醸し出していた。
――思ったよりぽっちゃりした感じなんだな――
今さらながらに感じた。ふくよかな感じと言ってもいいだろう。
抱き心地のよさを感じてしまったのは、彼女にオンナを感じたからだ。一目惚れだったはずなのに、最初から決してオンナを感じていたわけではない。そこが一目惚れだったゆえんかも知れない。
声を掛けて、近くの公園のベンチで話をした。太陽を背にして話をしていたので、長く伸びた影を見ながら話をしていた。
話の内容は他愛もないとこだったが、足元から伸びる影が次第に薄くなっていき、ビルの谷間に太陽が消えていくと、影がほとんど分からなくなっていた。
それまで吹いていた風がピタリと止んでしまっていた。日が翳ってしまったのに、暑さは相変わらずである。いや、却ってセミの声が大きくなったように思えて、暑さが増してきたくらいだ。
――やはり風が止むと、暑さを一層感じてしまうんだな――
今さらながらに敏郎は風の恩恵を感じていた。
ピタリと風が止む瞬間、朝と夕方に短い時間だが、毎日存在することを敏郎は知っていた。いわゆる「凪」と言われる時間帯である。
しかも夕凪の時間帯は、魔物が出る時間と昔から恐れられていることも知っている。もちろん迷信に違いないが、それでも何度となくこの時間帯に異様な感じを受けたことを思い出していた。
悦子を誘うと、彼女はついてくる。駅前のスナックに行ってみたのは、居酒屋よりもスナックが似合いそうなイメージを受けたからだ。店の雰囲気もさることながら、ビールよりもウイスキーが似合っている感じだと思ったのは、気のせいであろうか。
作品名:短編集48(過去作品) 作家名:森本晃次