短編集48(過去作品)
――かならずどちらかが歩み寄りを見せるか、未練がましくなるだろう――
という思いがあって、冷めてしまった相手に対し、未練がましい態度は見たくないものである。そういう意味では自然消滅もありなにではないかと思えてきた。
冷め始めたのは、最高に気持ちが歩み寄ったと思っていた時だったのかも知れない。初めて抱いたあの日をピークにお互いがぎこちなくなってしまった。上りきった坂の頂上から向こう側を見る。そして、今来た道を見る。見渡してみると、どこにもこれ以上に高いところはない。
その場で一周してみる。すると、自分がどの方向から来たのか分からなくなっていた。何しろ、まわりすべてが同じ光景に見えるからだ。
しかし、降りなければならない。迷ってなどいられない。敏郎は自分の信じた方向に下りていった。
――よしこっちでよかったんだ――
坂を下りきったところは、自分が目指していた方向だった。
――ひょっとして、どこを降りても、目的地にたどりついたのかも知れない――
と感じたが、下りきったところから後ろを振り返ることはなかった。そこにもし坂があろうがなかろうが、もう敏郎には関係のないことだった。そんな夢を見たのは、聡子と別れる前だったか、別れてからだったか。どちらにしても、聡子とのことを案じさせる夢であったことに違いない。
初めて聡子を抱いた時に感じた後悔の念。別れたあとに襲ってきそうに思えたが、別れてから後悔の念は一切なかった。しいて言えば坂を選ぶ時にまったく迷わなかったことが今でも不思議だった。もちろん、後悔などではない。結果往来で、間違った判断ではなかった。初めて結果往来でよしとする気持ちになったように思えた。
その頃にはすっかり潮風を忘れていたはずだったのに、聡子と別れて少しの間、夢で海が出てきたことがあった。
ベッタリとへばりつく潮風を感じながら断崖絶壁に向って歩いている聡子を追いかけていくのだ。
自然消滅で未練もなければ結果往来だと感じたはずだったのに、潮風の夢を二、三度だけ見たのだ。
すぐにそのことは忘れてしまったが、それからしばらくして雨が降ってくる前触れを感じる時に、ふと潮風を思い出すようになっていた。
雨が降る前は、独特の匂いが襲ってくる。
アスファルトに溜まった塵やゴミが乾燥した中で空気に舞っていたのに、湿気た重たい空気に触れ、水を含んで蒸発しようとする時に異臭を発するのだと思っている。当たらずとも遠からじであろう。
雨の日も、潮風も空気に重たさを感じる。それは湿気を含んでいるからであろうが、潮を含んでいる分、潮風の方が明らかに気持ち悪い。
潮風を感じると、淫靡なイメージがよみがえってくるのはなぜだろう。
潮風には湿気や塩分とともに、鉄分を感じることがあった。塩分だけであればそれほどでもないのだろうが、特に大人になってからの嗅覚は、鉄分の方を敏感に感じるもののようだ。
目を瞑って思い出すのは坂だった。
坂から見えるネオンサイン、その下に吸い込まれるように入っていくと、初めて相手をしてくれた風俗嬢を思い出す。
そこで鉄分を思い出す。身体から発散されるオンナの色香が鉄分を含んでいる。
そういえば、彼女が言っていたっけ、
「お客さんは初めてなんでしょう?」
という話をしたが、そのあとに続きがあった。
「お客さんの身体から、潮の匂いを感じるんですよ。あなたも私に感じませんか?」
潮風のことはしばし忘れていたし、思い出したくもないことだった。まるで夢心地だったこともあって、中途半端な思い出し方をしていたので、彼女の話にも素直に答えられたのだろうが、もし普段であれば、不愉快な顔をしていたかも知れない。彼女がそれ以降もその話を続けたということは、その時の敏郎の表情からは、不愉快な雰囲気は醸し出されていなかったということなのだろう。
「そうですね、何となくですが……」
「そうでしょうね。私が初めての時に相手から言われましたもの。きっと初めての時に表に醸し出される感情には、血液の成分が混じっているのかも知れませんわね」
「血液、ですか?」
「血液って鉄分を含んでいるでしょう? 女性は初めての時に出血するのはご存知だと思うんですけど、男性も出血しないまでも、体液が初めての時は違っているように思うんですよ。もちろん、最高潮に達するまでの過程の中でも気持ちの高ぶりが違うんでしょうね。まるで手探りをしているようで。私はそんな仕草をする男性を見ていると、いとおしく感じられるんですよ」
彼女はそういって、まるで子供のようなあどけない表情を見せていた。その時にきっと気持ちが通い合ったのではないかと思ったのだ。その時のあどけなさを聡子に求めていたことは否定できない。今から思い返せば、結局聡子に一度も子供のようなあどけなさを感じることはできなかった。
――なぜなんだろう――
聡子は従順で敏郎にとっては、もったいないくらいに知的な女性でもあった。
求めているものがどこか違っていたから別れることになったのだろう。だが、本当にそれだけだろうか。
聡子にも鉄分を感じた。聡子は間違いなく敏郎が初めての相手だった。それは坂の下の店で彼女が話していた通り、最初に分かった。それは仕草だけからではない。仕草を見るよりも感じた匂いがより自分の感覚に正確さを与えてくれた。
――この匂いは初めてに違いない――
と感じたが、それと同時に、
――嫌な臭いだ――
とも感じた。あきらかに潮風の匂いだった。
暗くなった部屋で湿気を帯びた重たい空気を感じている。潮風があるわけではないのに、ベッタリとへばりついてくる空気、むせ返るような匂いに、嗚咽を耐えていた時間帯があった。
どんな匂いでも慣れてくれば多少は楽になるものだ。初めて自分に身を任せてくれる聡子への思いを強めることで、匂いへの嫌悪感が次第になくなってくる。
すると感じるのは、男としての本能が自分の中で膨らんでくることだった。自分の身体から鉄分を含んだ感情があふれ出してくるのを感じた。自分の身体から発散される鉄分に限っては潮風を感じることはない。何とも都合のいい感覚ではあるまいか。思わず苦笑いをしたのを思い出した。
すべてが終わり、儀式の終了によって充満した空気の中でまたしても潮風を感じていた。
気だるさの中での潮風はそれほど苦痛ではなく、却って何もないよりも刺激的で感情を維持できそうなくらいだった。
その日の敏郎は、聡子を抱いたことへの満足感でいっぱいだった。
――聡子ほどいとおしい女性はいない。彼女こそ、自分のとって最高の女性なのだ――
とまで感じたほどだった。
初めての相手を抱くと、皆同じ気持ちになるものだと、しばらくは感じていたが、まさか他の人にそんな感情について語り合うわけにもいかない。一人で思い出しながら、聡子への思いを強めていった時期があったのも事実である。
そんな仲だったはずなのに、どうして別れることになったのか、性格の不一致といえばそれまでだが、どこがどのように不一致なのか説明には困ってしまう。
作品名:短編集48(過去作品) 作家名:森本晃次