短編集48(過去作品)
それからしばらくして、彼女ができた。
最初は普通にデートをしたり、お互いの夢を語り合ったりと、いわゆる純愛だった。
敏郎の夢は今から思えば恥ずかしいくらいであるが、テレビ局で番組制作に携わることだった。実際には夢破れたと思ったのはその後すぐくらいだったので、その夢を話したのは、後にも先にも彼女だけだった。
彼女も女優を目指したいと言っていて、実際にバレイのレッスンを受けたりしていたようだ。
「女優になれなくても、きっと今やっていることは将来自分のためになるんだと思ってやっているのよ」
最初は、夢といいながらまるで伏線を引いているように聞こえたが。夢とは元来そんなものではないだろうか。敏郎にしてもそうである。確かにテレビ局など夢のまた夢、成し遂げられないことを勝手に想像して、いくらでも頭の中で膨らませたとしても許されるのが夢である。敗れても、それでも持ち続けられるのも夢ではないだろうか。そう考えると、彼女のそのセリフは、
――潔さ――
と考えてもいいだろう。そう感じた時、初めて、
――この人は俺の恋人になる人なんだな――
と思えてきた。
彼女の名前は前島聡子、最初こそ苗字を「さん」付けで呼んでいたが、夢の話をし始めてから、お互いに下の名前を呼び捨てにする仲になっていた。
聡子と初めて身体を重ねたのは、付き合い始めて半年が経ってからだ。
――かなり遅かった――
今から考えても信じられないほどの遅さだ。
その日はお互いにテンションが高かった。イライラしていたといってもいいかも知れない。それまでお互い会う時にイライラしているとしても、どちらか一方だけで、相手の気持ちが分かっていたつもりだったので、会ってもそれほど長い時間一緒にいなかった。一緒にいるのが辛いと思ったのは、イライラしている方の人で、相手が嫌がっているように見えて仕方がなかったからだ。
「今日はこれで帰ろう」
敏郎がイライラしている時は、いつもそうだった。
「ええ」
聡子も逆らわない。まるで腫れ物に触るようにお互いが緊張の連続だったのだ。
だが、初めてお互いにイライラしている時に出会うと、その思いは違っていたことに気付いた。
相手のイライラが分かっているつもりだったが、実際は分かっていなかった。イライラしている方から見て、相手に不快を与えていると思っていたが、それも思い込みだった。
要するにお互い気を遣っているつもりでいて、自分のことしか考えていなかったのだ。だから一緒にいるのが辛くなる。なるべく自分の中で納得させてその場から一刻も早く立ち去りたかった。お互いにその利害が一致するからこそ、すぐにその日は別れてしまったに違いない。
しかし、お互いにイライラしていると、今度は不思議と、お互いに相手のことを考えるようになっていた。
相手を見ていると、自分の気持ちを映しているように思えるからだ。
敏郎は両側に鏡を置いてある部屋がなぜかイメージされていた。中央には自分がいる。中央にいる自分が、両側に置いてある鏡のどちらかを見る。そこには鏡に写った自分、そして、その鏡を見ている自分、そしてさらにまたそれが鏡に写っている……。
両側に果てしなく続いている自分が写っている。それはまるで相手が自分の気持ちを考えてくれていることに気付いているから感じる思いだった。
堂々巡りしているようにも思えるが、お互いの気持ちはそれでもいい。分かっているからこそ、果てしなく映し出されているのだと考えると、無性に相手の中まで知りたくなってくる。
「今日はずっと一緒にいたいな」
この言葉がお互いの気持ちを高ぶらせた。いや、元々高ぶっていたのかも知れない。一緒にいて、甘い匂いを感じていたからだ。その匂いは以前にどこかで感じた匂いだったが、それが坂の下にある店で友達に初めてつれていってもらい、自分の気持ちに正直になれたと思っていたあの瞬間に戻ったように思えたからだ。
――まず一緒にいたい――
この気持ちで聡子を見つめていると、彼女も頷いてくれているようだ。
気がつけば坂を下りていた。かつて友達と行ったお店のある坂ではなく、また別の街を目指す坂だったが、その坂の先にはホテル街があった。
ネオンサインに違和感はない。それでいて指先が微妙に震えている。
武者震いでもない。何と表現すればいいのか、戸惑いがなかったといえばウソになるだろう。
聡子も微妙に震えていたので、それに合わせていたというのが本音かも知れない。こんな時は必要以上に自分を高ぶらせてはいけないのだと、頭の中で感じていた。
どの建物に入ったのか、出てくるまで記憶になかったが、部屋の中に入ってしまえば、急に緊張がほぐれていた。気がつけば彼女を抱きしめていて、唇を塞ぐ。彼女とは初めてのはずなのに、今までに何度も二人だけになったような錯覚があった。
――ホテルだって初めてなのに――
こういう雰囲気の部屋も初めてのはずなのに、
――前にも来たような気がする――
と感じたが、それもこの部屋に対してだった。
後から思い返して、初めてではなかったと思ったのだろうか? そういうことは得てしてあるものだが、その時の敏郎には確かに初めてではないという感覚があったように思える。だからこそ、精神的に余裕が持てたのかも知れない。
絶えずリードは敏郎だった。
聡子が初めてではないということも、最初に唇を塞いだ時に気がついた。なるべくリードを敏郎に任せているのが分かった、分かりすぎるくらいに分かるのだ。そのあたりが、
――彼女が初めてではない――
と感じる直接の要因になったに違いない。
――一緒にいたい――
この期に及んでも、一番強い感情だった。イライラしているはずなので、もっと欲望が前面に出てきてもおかしくないはずなのに、彼女への思いは、それほど欲望を通して見えてくるものはなかった。
――どうして、今こんなことを思い出すのだろう――
敏郎は、以前友達と行った店を出てきた時に、少なからずにあった後悔の念を思い出していた。
何に後悔しているか分からないが、後悔の念にとらわれていたあの時である。
――まだ聡子と身体を重ねたわけでもないのに、なぜなんだ――
自問自答を繰り返していた。
聡子とはそれからしばらく付き合って、気がつけば別れていた。
――気がつけば――
というのは、自然消滅に近かったからで、感情が高ぶっていたように感じた時期はそれほど長くはなかった。冷静になってみればお互いに性格が合うわけではなく、よく続いていたとも思えるほどだった。
だが、それでも時間を無駄に過ごしたとは思っていない。彼女から得るものはかなりあったはずだし、彼女にとっても、敏郎から得るものはあったに違いない。ただ、性格の不一致がお互いに歩み寄りを許さないところまでハッキリとしてきたので別れることになったのだ。
――自然消滅など、付き合っている男女には考えられない――
と思っていた時期があった。
自然消滅するくらいなら、付き合うようになるはずがないと思っていたからで、もちろん、喧嘩別れするほど愚の骨頂はないと思っていたが、それに近い感覚だった。
作品名:短編集48(過去作品) 作家名:森本晃次