短編集48(過去作品)
待合室の豪華さが緊張をさらに高めた。ひょっとして待合室にいた時間がその日の緊張の最高潮だったかも知れない。タバコを吸わない敏郎の前で、友達はタバコに火をつけ吸っている。よく見ると指先が震えているのが見えた。いくら初めてでないにしても、この時間は緊張を伴うものなのだろう。ましてや初めての敏郎にとって、緊張しないはずはない。友達の震えを見て緊張がほぐれそうでほぐれないのは、頭の中をいろいろな思いが堂々巡りしていたからに違いない。
気がつけば友達のタバコは三本目になっていた。落ち着いているように見えるが精一杯の虚勢だったのかも知れない。だが、二人同時に店の人から呼ばれてタバコを揉み消すその手は、もう震えていなかった。
二人の男性店員が友達と敏郎をそれぞれ案内する。
「それじゃあ、楽しんで来いよ」
と手を振って友達に送り出されたその先はまったく一人の世界である。店員に案内されて入った部屋は表のネオンに比べて薄暗く、淫靡な雰囲気を醸し出していた。
「いらっしゃいませ」
三つ指をついて女の子が部屋の前で待っている。下から見上げるその顔は普通の女の子に感じた。てっきり化粧の濃いちょっとおばさんっぽい感じの人だと思っていただけにビックリさせられた。それでも彼女の誘導されるとおり服を脱いで、気がつけばお風呂に入っていた。
その間に絶えず話しかけてくれていたのは分かっていたが、何とか相槌を打つだけで精一杯だった。それでもずっと話しかけてくれることはとても嬉しく感じられたのは、他人事のように思っているもう一人の自分がいたからに違いない。
「友達と一緒に来たんだけど、結構待たされた気がしたんだよ。待合室の時間っていうのは独特なんですね」
いろいろな用意をしてくれて絶えず手を動かしている彼女を浴槽から眺めながら初めて話題を振ることができた。
その話を聞いて少し考えていたようだが、
「とても気が利くお友達なんですね。お客さんはこういうお店は初めてなんでしょう?」
「はい、やっぱり分かります?」
「ええ、最初にピンと来たんですけど、今のお話を窺っていて、ハッキリしました」
「それはどういうことですか?」
「お友達は、きっと待合室であなたを一人にしたくなかったんでしょうね。初めての人があそこで一人でいる時間が長いと、実際にお部屋に入ってからの時間があっという間に過ぎてしまうことがありますからね。そして、逆にあなたが先に入ってしまうと、今度はあなたが先に出て、お友達を待っていることになるでしょう? それも却って初めての人にはきついんじゃないかしら。一人で来てくれたのであれば、余韻にも浸れると思うんですけど、お友達を待っていないといけないと思うだけで、かなり精神的に違うでしょうからね」
彼女の話を聞いていて、いちいちもっともだと思えてきた。なるほど、さすがによく男性を観察しているなと思ったほどだ。そう考えると、次第に緊張がほぐれてきた。
「こういうところでは男性は受身なんですよ。だから何も気を遣うことなんてないんですよ。私に任せてね」
その表情からは淫靡な雰囲気などまったく感じさせなかった。
――これからこの人にすべてを委ねるんだ――
と思うと、緊張よりもくすぐったさを感じ、そのくすぐったさは、決して不快なものではない。まるで体が宙に浮いてきそうな感じがしていた。
簡易ベッドに横たわると、彼女の話の通り、すべてを委ねていた。一生懸命に尽くしてくれる彼女を見ているといじらしさを感じ、その気持ちが敏郎の体を宙に浮かせる。
――すべてを委ねるんだから、きっと冷静さを取り戻せるだろう――
と思ったが、どうもそうではないようだ。身を任せてはいるが、どこか彼女との一線を感じる敏郎だった。
――俺ってそんなに素直じゃないのかな――
という思いが頭を擡げたが、逆にこの雰囲気に染まってしまう自分を恐れたのかも知れない。一生懸命に自己暗示に掛からないようにしていたように思う。だが、身体は正直で、高ぶってきた身体が火照りに変わり、大きな腫れのようなものが頭の中でイメージされた。
イメージがあとはいつ爆発するかだけに掛かっていたが、彼女もそのことを分かっているようだ。
「我慢しなくてもいいのよ」
優しく声を掛けてくれる。我慢せずに腫れを爆発させれば、憔悴感から恋人気分に戻れないかも知れないという思いがあって無意識に我慢してしまっていたようだ。
だが、彼女の執拗な攻撃に初めての敏郎のささやかな抵抗など、まったくの無駄だった。お釈迦様の手の上で遊ばされている孫悟空のイメージが頭に浮かんでくる。どうしてそんなことを思い浮かべたのか、その時は分かっていたように感じたが、後から思い出せば分からない。
――きっとそんなものなんだろうな――
遠のく意識の中で、後から思い出すことまで考えていたように思えた。
店を出た後、少しの後悔が敏郎を襲った。最初がプロの女性だったことにではない。相手はいくら商売といえども、敏郎に優しく尽くしてくれた。今度、自分が主導で女性を抱く時に、相手に対して思いやりを持つことの大切さを教えてくれたのだ。
お金がもったいないという思いでもない。そんなことを考えているのなら、最初からいくはずはない。自分で納得行かなければ行動に移さないのが敏郎ではなかったか。
店を出ると、表はすでに真っ暗だった。友達と入った時は、太陽はまだ高い位置にあり、少なくとも差し込んでくる西日を感じたわけでもなかった。
――これほど時間が経っていたとは――
しいて言えば後悔の一旦は、自分が考えていたよりも時間が経っていたことかも知れない。無駄に使ったわけではないはずの時間を思い起こすと、あれほどすべてが新鮮だったはずなのに、想像していたほど印象に残っていない。まるですべてが夢のようだったといえば聞こえがいいが、印象として残っていないのでは、少し寂しい。そこに後悔の念を感じているのかも知れない。
少し遅れて出てきた友達はすがすがしい顔をしていた。果たして自分がどんな顔をしているのか分からないが、友達ほどすがすがしい顔をしていないことは確かである。それを察してのことだろうか、
「まあ、最初はあんなものさ」
と友達の一言であるが、
――あんなものとは、どんなものなんだ――
本当は聞き返したかったが、きっとそのあとの会話が続かないことは分かっていたので、聞き返すことはなかった。
坂を上りながら感じたことは、
――こんなに世界が狭いものだったのかな――
焦点が定まっていないのか、全体的に遠くに感じられる。ネオンサインもいつも感じているよりも鮮やかで、
――視力がよくなったのでは――
と感じるほどだった。
急に視力がよくなるわけはない。感覚的に自分では夢を見ていたように感じているが、実際はスッキリした気持ちになっているのかも知れない。目は正直だということだろう。その日は友達とそのまま一杯飲んで帰ったのだが、酔いも普段に比べて早くやってきたように思う。しかし、翌日に残るような酔いではなく、すがすがしいものだった。一杯のビールをゆっくりと時間を掛けて呑む。それがその日の儀式の締めくくりだった。
作品名:短編集48(過去作品) 作家名:森本晃次