コート・イン・ジ・アクト2 通り魔が町にやってくる
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〈殺人課急襲隊〉が生まれたのは、通り魔事件がそもそものきっかけだったという。殺しが予知されるようになった当初はやはり、未来に起こる事件の対処には慎重論が大勢(たいぜい)を占めた。
人は言った。殺人が必ず行われるとは限らないのではないか? 直前で犯人が気を変えることもないと言えないのでは?
この言葉を聞くたびに、計画を推し進めてきた者達は目の前が暗くなるのをおぼえた。彼らの眼に、慎重論者はまるで〈分数の割り算ができない子供〉と映っていたという。
1÷1/2=2。一個のリンゴをはんぶんこすればリンゴは〈ふたりで〉食べられる。だから計算の答は〈2〉――それが分数の割り算だ。なのにそれだけの簡単なことがわからずわかろうとすることもせず、『一個のリンゴの二分の一なら答は〈2分の1〉だろう』と言い張り、『それが〈2〉になる計算など絶対おかしい』とムクレて考えを曲げない。
そして必ず言い出すのだ、『自分に分数ができないのは分数などそもそも間違っているからであり、それがわかる自分の方が数学者よりずっと頭がいいのだ』と。こういう手合いは人と何かを分け合ったことがないのじゃないか。
世の多くの人間が分数の割り算を理解しない。論理的な思考ができない。政治家、官僚、ジャーナリストといった者達もまたそうであり、権力を握るためにはむしろその方がいいのだった。保身を図ることには長けた権力者らは、〈予知システム〉の計画についてそもそも説明を聞こうとすらしなかった。
そうして言った。『もし殺人予知能力者が、このワタシが殺人を犯すなどという予知をしたとしよう。だがそいつは絶対に「外れて終わる」と言わせてもらうね。なんと言っても、ワタシに限って過ちを犯すことなど有り得んからだ。だってワタシはこれまで生きてきた人生でただのひとつも間違ったことをしたことがないんだからね』と。このように人はどこまでも愚かだった。
殺人予知が百パーセント確かであるとは限らない――そんなのは当たり前だ。予知が決して信頼できないというのではない。しかし当たるか外れるか何をどうやって見定めるのだ。
その方法はたったひとつ。何もせず放っておいてどうなるか見る――男が女を監禁し、『オレのことを好きになるまでこうしてやる』と叫んでガンガン殴りつけてるような場合だろうと構わずに。
それをやったらどうなるか、マトモな頭の持ち主ならば考えてわかるはずだろう。一体なんでそんなやつまでほっておかなきゃならないのか。〈拉致監禁〉に〈暴行〉をしてる時点でアウトにしちゃいけないのか。
と、普通なら思うはずだ。けれども事は〈やる〉か〈やらぬ〉かの二択であって中間はない。〈未然阻止〉をやらぬとなれば無条件にすべての予知を無視せねばならない。『まだ起きてない』わけじゃなく『恐ろしい事件が既に進行中で、後は命が奪われるばかり』という状況でも止めに入ってはいけなくなるのだ。
だがそれをやってどうする。やったならば、その遺族が『どうして何もしなかった』と叫ぶに決まってるじゃないか。『これではワタシの妻は、娘は、警察に殺されたも同じではないかーっ!』と、世に訴えるに決まってるじゃないか。どうするてんだよ一体そのとき。
無論、人権団体は『遺族感情は一顧だに値せず』の主張をがなり立てている。『状況の如何に関わらず予知で捕まえた者は無罪。だからその人も無罪です! 予知が外れる確率が1パーセントでもあるのなら、全部外れるとみなすべきです。人が死んだらサッサと忘れ、明るく楽しく生きていく。それが正しい道なのです。未来に起こる殺人を止めることは間違いでーすっ!』と。
立派なようだが、しかしこういう人の主張を、受け入れちゃっていいもんなのか。この問題の対処について、〈予知システム〉の計画を練り上げていた者らは言った。
『殺しが起こる』と予知されて当たる確率が高いなら、ともかくまずは殺されるはずの人を保護すべきと思いませんか。予知が当たるか外れるか考えるのはその後でいい。警官をそこに送って物事がどうなるかを見るのです。
たとえば家に空巣のつもりで泥棒が入り、家人に見つかり殺してしまう事件が予知されたとしましょう。〈家人〉を保護して代わりに警官がその場に潜み、〈空巣〉がやって来るのを待つ。家に入るところを押さえて現行犯で身柄を確保。ただし、容疑は〈家宅侵入〉。
それでいいんじゃないでしょうか。これで冤罪の心配なしに、本来は死ぬはずだった人の命を救えるわけです。被疑者が凶器を持っていれば、〈殺人予備〉の容疑を付けて起訴できるかもしれません。あるいはさらにしばらく待って家を荒らすのを見届けて、何か盗んで家を出るのを捕まえて〈窃盗〉の罪を足してもいい。
その辺は臨機応変となるでしょうが、とにかくそんなやり方で〈既遂犯〉を捕らえ裁こうと言ってるわけです。決して変な法律を作って何もしてない人間に殺しの罪を着せるのではありません。
『話はわかった』と、分数のできない者らは言った。『しかし必ず殺人が起きるかどうかわからんだろう。起きるかどうかわからんのに殺しが起きると考えるのは間違いだとワタシは思うね。だって、殺しが起きるかどうかわからんじゃないか。そうだろう。殺しは起きないかもしれんのだぞ。なのに殺しが起きると考え、何もしてない人間に殺しの罪を着せるのかね。殺しは起きないかもしれんだろうに』
『殺人が起きてからでは遅いんですよ』
『いや、君らはちょっと頭がおかしいんじゃないのかな。殺しが予知されるんだから、これからは空巣だろうとなんだろうと犯罪をする者なんかいなくなるよ』
このピーマン頭どもが現実をようやく認識するまでに千人もの人が死んだ。一年後に彼らは言った。
『まったく、事がこうなるとちゃんとわかっていたのなら最初によく教えてくれなきゃ困るじゃないか。強盗殺人は〈泥棒〉でだけムショにブチ込むと言うんだな?』
『そうです。しかし通り魔などでは、法律上は街で刃物を振りまわせば〈暴行〉の現行犯として逮捕できます。しかし市民や警官に犠牲を出さずにそれをやるのは非常に難しいでしょう。射殺以外に凶行を未然に防ぐ方法はないと考えます』
『それは困る。まだ人を殺していない人間を撃つというのは認められん』
『何人もが死ぬのです。ひとりが刺し殺された後なら撃っていいとでもおっしゃるのですか』
『そういうことではない』
と言った。警察官僚にとって、一般市民や下っ端警官が何人死のうとどうでもいいことなのだ。被疑者の確保だけが重要で、生かして捕まえるのでなければ意味がない。
まあ、将棋みたいなものだ。駒をどれだけ取られても、敵の王を詰みさえすれば勝ちとなる――それが彼らの常識であり、出世のための物の考え方だった。自分が出世するためには犠牲などどれだけ出ても構わないんだから、構わないんだ。
『現場の判断で射殺など断じて認めるわけにいかん。人命を尊重するように』
こうして強盗や傷害事件で、市民や警官の死者やケガ人が何百も出ることになった。犯人が検挙できてる限り、偉いさんは気にしなかった。
作品名:コート・イン・ジ・アクト2 通り魔が町にやってくる 作家名:島田信之