コート・イン・ジ・アクト2 通り魔が町にやってくる
02
未来予知で殺人が未然に防がれるようになっても、通り魔殺人はなくならなかった。
対処方はひとつしかない。射殺だ。殺(ころ)す前に殺(や)れ。包丁や銃を持って街を駆ける人間を、一般市民や警官に犠牲を出さずに捕まえるのは不可能に近い。だから見つけ次第に殺す。
ということでバンバンとやった。それでも通り魔はなくならなかった。数もまったく減っていない。
今や誰もが知っている。通り魔は射殺だ。それなのに、なぜやつらは事に及ぶのか――その答もまた誰もが知っていた。通り魔は自らの死を望む者が、道連れを求めてする犯罪であるからだと。
塔に籠って眼下の人々を狙い撃ち、自分が射殺されるまでそれを続ける狙撃魔に、手当たり次第まわりの人々を撃ち殺し、最後に残った一発で自分を撃って死ぬ銃殺魔。街を駆け抜ける切り裂き魔は『死刑になりたくてやった』と語り、判決でそれが叶わなければ檻の中で首を吊る。裁判では精神異常を主張して『死にたくない』と泣く場合でも、犯行時には命を捨てたつもりでいるのが〈無差別通り魔〉という犯罪だった――かつて未来予知がなく、殺人を事前に知ることのなかった頃には。
そして現在。『パッと派手に死にたい』と願う人間にしてみれば、警察に撃ち殺されるのは望むところというわけだ。
殺しを予知する能力者には、殺される側の者が最後に見るもの、何を感じ考えるかしかわからない。通り魔のような場合には、犯人についての情報はごくわずかしか得られない。せいぜい服装やおよその年齢、凶器に何を使うか程度だ。
殺人予知者は通り魔の顔を〈視(み)〉るわけだが、だからって頭にプラグを挿し込んでテレビに映して見るなどといったSF映画みたいなことができるわけじゃない。犯行までたった二時間しかないのでは、殺人予知者に何千人もの写真を見せたり似顔絵を描かせたりなんてのも無理だ。
できたとしても無駄だろう。人を殺すときの人間は、およそまともな形相なんかしているものじゃないのだから。
ゆえに通り魔をやる者には、警察に射殺される前にひとりかふたり道連れに殺すチャンスがあることになる――場合によってはもっとだ。刺してから絶命までに時間がかかると予知が間に合わなくなるし、傷を負わせるだけの者にはなんの感知もされはしない。警察がミスを犯して取り逃がすことにでもなれば、それから二時間の間はどこでどれだけ殺そうと好きになりさえするのだから。
ために現在、無差別通り魔殺人は、撃たれる前にひとつでも多くの命を殺(と)ろうとする犯人と、防ぐのには正体を隠して群集の中に散らばり、見つけ次第に射殺せねばならない警察との、街を舞台に勝敗を競うゲームとなっていた。ゲーム(獲物)となる市民には、決してそれを教えてならないゲームだ。
だが、中には、ちょっと変わった通り魔もいて――。
作品名:コート・イン・ジ・アクト2 通り魔が町にやってくる 作家名:島田信之