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「あの世」と「寿命」考

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――浦島太郎は疑問に思わなかったのだろうか?
 と思ったが、ひょっとすると、楽しみながらでも、ずっと疑問を抱いていたのではないかとも思える。
 だからこそ、浦島太郎には時間の感覚がなかったとも考えられなくもない。時間の感覚がなかったのは、楽しくて仕方がなかったからだと思えるが
「好事魔多し」
 という言葉もある通り、普通ならおかしな現象が起これば、疑問が消えることはないだろう。
 竜宮城ではマインドコントロールが効いていて、浦島太郎だけではなく、それまでにもたくさんの人がカメに連れられて、いや、拉致されて、竜宮城に連行された人はたくさんいたのかも知れない。
――だが、それなら誰とも合わなあったのはおかしい。ひょっとすると、竜宮城という世界は複数あったのではないか?
 という考えもありではないか。
 浦島太郎もそのことをずっと考えていたとすれば、それは結論の出ないものをずっと考えていることであって、時間の感覚がなくなってしまったのも、無理もないことではないだろうか?
 そう考えると、竜宮城は本当に夢の世界だという理屈は、いい悪いどちらにもあり、まるで、
――究極の選択――
 ではないかとも思えるのだった。
 浦島太郎の話は、腑に落ちないところが多すぎる気がする。
――カメを助けたといういいことをしたのいん、どうして最後は老人にならなければいけないのか?
 という疑問が多いのもその一つである。
――浦島太郎という人は、本当にいいことをしたのだろうか?
 という疑問から、その時に出てきたカメは、
――本当は悪のエージェントであり、子供たちが苛めていたのも、本当は大人の人が悪人を懲らしめていたのを、おとぎ話らしくごまかして、子供が苛めていたことにして、内容をぼかしていた――
 という考えは危険であろうか。
 浦島太郎の話を子供が一般的に知らされた話として受け取れば、このような危険な発想が生まれなくもない。だが、本当の浦島太郎の話は続編があると言われている。
 もちろん、いろいろな異説もあるのがおとぎ話で、地域地域によって伝わっている話が違っていたりするが、おおむね同じものが多いだろう。一般的に伝わっているのは、御伽草子や歴史上に公認されている書物に乗っている話を元に伝えられたもので、実際に書物通りに教科書や絵本に乗っているかどうかは、はなはだ疑問である。
 浦島太郎の話として伝わっている本当のものとして一番信憑性のある話としては、浦島太郎がカメを助けて竜宮城に行き、数日を夢のような日々として過ごしたが、
「そろそろ帰りたい」
 という話を乙姫様にすると、乙姫様から玉手箱を貰って、
「開けてはいけない」
 と念を押されて、元の世界に戻った。
 すると、そこは自分の知らない世界になっていたということであるが、真説としては、それは七百年後の世界であるということである。
 当然、人間の寿命が五十歳か、そのプラスアルファくらいの時代に、七百年などという数字は天文学的な数字だったことだろう。
 そこで浦島太郎は玉手箱を開けた。
 伝わっている話としては、老人になってしまうというものだが、本当は浦島太郎は弦になったというものが真説だった。
 どうして乙姫が玉手箱を渡したのかというと、乙姫は浦島太郎に恋をしてしまい、元の世界に戻りたいという浦島太郎の気持ちを無視できないというジレンマに陥った結果、浦島太郎を鶴にして、さらに自分がカメになって地上に行き、そこで永年を幸せに過ごしたというのが、真説だとされている。
「鶴は千年、カメは万年」
 という言葉が示すとおり、鶴亀は長寿の守り神として信じられている。そこから考えられた話がこの浦島太郎の話ではないかとされているが、それなのに、現在伝わっている話の結末がまったく違っている。
 話としては、
「開けてはいけない」
 という約束を浦島太郎がたがえたことで、その罰を受けるというものだったようだ。
「開けてはいけない」
 という禁を破って、主人公が不幸になるという話は、おとぎ話としては定番である。
 それなのに、なぜわざわざ同じような結末をたくさん作る必要があったのかということを考えると、
――本当の結末が違っていた――
 という考えも十分にありではないかと考えられる。
 おとぎ話というのは、えてしてこんなものなのかも知れない。時代の途中で話を曲げられたものもあると言えないだろうか。伝えられているものが本当にそうなのか、おとぎ話自体が本当に教訓のようなものだとは言えないとも考えられる。
――そもそも教訓って何だろう?
 と考える人もいるだろう。
 おとぎ話として残っているが百あるとすれば、同じ書物に記載されている話は、五百だったり千だったりするかも知れない。教訓として教科書や絵本に載せられるものが百しかなかったから、
――百がすべてだ――
 と思わされているだけなのかも知れない。
 ただ、数が多ければいいというものではない。どうしても話のパターンは限られている。教訓と一口に言っても、教育上の観点から、
――子供に理解できるもの――
 という前提があれば、おとぎ話というのは、かなり限られてくるだろう。
「開けてはいけない」
 と言われたものを開けてしまったという話が一般的に多いのはそのせいもあることだろう。
 中にはもっと生々しいものや、残虐な話もあるはずだ。それでもおとぎ話として残すためには、ラストを変えてしまうというのも無理のないことだと考えると、実際にどこまでを信じていいのか、分からなくなるだろう。
――そういう意味でも、おとぎ話というのは、子供だけの世界なんだ――
 とも言えなくもないだろう。
 大人になって、よこしまな社会の事情をいろいろと知ってしまうと、おとぎ話を歪んだ発想で見るかも知れない。そうなれば、せっかくの教訓として残してきたものが、変わってしまうのはまずいだろう。特に今の世の中、ネットなどの普及で、絶えず不特定多数の人の意見を聞けるようになっている。歪んだ考え方に対してさらに歪んだ考え方をする人がいれば、話の元々がなんだったのか、分からなくなるだろう。
 おとぎ話の中で出てくる。たくさんの、
――極楽浄土――
 あるいは、
――地獄のような世界――
 そこには、宗教で信じられているものがそのまま描かれている。
 浦島太郎の話以外にも極楽浄土を描いたものも少なくはなく、地獄絵図を描いたものもあったように思う。
 ただ、いろいろ考えていると、いくつかの結論が出てくる中で、面白いと考えられる結論が、
――あの世とは言い伝えられているものだけではないのではないだろうか?
 というものであった。
 三原綾子という女性がいるが、彼女はそのことを実は子供の頃から考えていた。
 小学生の頃友達に、
「あの世って、天国と地獄があるって言われているけど、どうしてそれだけだっていうのかしらね?」
 と聞いたことがあった。
 友達もいきなりそんな質問をされて困惑したようで、
「そりゃあ、そう言われているから、そうなんじゃないの?」
 と答えた。
 もちろん、綾子はそんな答えを期待しているわけではなかったが、
――どうせ、答えは決まっているわよね――