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「あの世」と「寿命」考

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 しかし、実際に滅亡するはずの日を通り越しても、この世が滅びることはなかった。一大決心をして、この世が滅びることを信じて疑わなかった人は、この世がなくならなかったために一文無しになり、それが大きな問題となった。
 冷静になって考えれば、寄付を募った人たちも、いくらお金があったとしても、皆滅びるのだから、同じことのはずなのに、それでもお金を募るということは、詐欺ではないかという発想に、どうしてならなかったのかと思えるだろう。それだけ滅亡説を真剣に信じて疑わなかったということであろうし、滅びる以外の発想をすることすら邪道だと感じていたのかも知れない。
 天国という発想があるから、地獄がイメージされたのであろうし、地獄という発想があったから天国をイメージしたのかも知れない。極端な片方が存在すれば、どんな社会や発想であっても、そのアンチが存在することは避けて通ることのできないことではないだろうか。
「地獄に行きたくないから、いいことをして天国に行くんだ」
 という発想なのか、
「天国に行きたいから、いい行いをするんだ」
 という発想なのかでは、イメージできる範囲はかなり違っている。
 前者の方が説得力はある。天国と地獄、どちらが最初にイメージされたものなのか分からないが、天国を肯定するなら、地獄も肯定しないわけにはいかない。
「天国と地獄はセットで考えられる」
 それはあくまでも、人間にとっての死後の世界の発想だ。
「いい行いをすると天国に行ける」
 という発想は、最高のプロパガンダなのかも知れない。
 天国と地獄という発想は、しょせん宗教の発想から生まれていると思うと、
――宗教を毛嫌いてしている人は、天国と地獄の発想を信じていないのだろうか?
 とも思えるが、決してそんなことはない。
 宗教という発想と、天国と地獄という発想は、元々は同じものから端を発しているのかも知れない。しかし、宗教というと胡散臭いものだという印象が強いのは、どうしても、先ほどのこの世の終わりの日の伝説に乗っ取っての詐欺まがいの事件があるからではないだろうか。
 さらにいうと、今までの歴史から考えれば、戦争というものの原因のそのほとんどは、宗教問題が絡んでいることが多い。
「宗教というものは、この世で苦しんでいる人を救うというが、元々の発想ではないのだろうか?」
 と思えてならない。
 しかし、実際には宗教はいくつもの宗派に分かれてしまい、それぞれの覇権を巡って争いが絶えなかった。
「そもそも、宗教に宗派があるというのもおなしいのではないか?」
 と思っている人も少なくないだろう。
 確かに宗派にもいろいろあり、元は同じものだったにも関わらず、どこかで別れてしまうという発想は、旧約聖書の「べベルの塔」の話にも連想されるものを感じる人もいることだろう。
 バベルの塔の話というと、その昔、バビロニアというところに、一人の王がいて、その王の権力は絶大であった。
 彼はその権力をひけらかすために、天にも届くようなはるかな高さに聳える塔を建設し始めた。もちろん、それを請け負うのは、王の「所有「する奴隷たちである。
 その王は完成した塔で、歓喜のあまり、天に向かって矢を射るという暴挙を行った。
 それにより怒りを覚えた神様が、塔を破壊し、人民が共同で作業できないように言葉が通じないようにして、全国各地に散らばらせたという発想である。
 それまで、人類は言葉は一つで民族も一緒だったということなのかどうかまでは分からないが、少なくともそう思わせる発想である。
 このバベルの塔の話は、通説とはまったく逆の発想をすることもできるのではないかと考える人もいたりする。
 話としては、神に近づこうとする暴挙を神は許さないと考えられるが、聖書を編集したのが人間だと考えれば、それだけの発想ではないと思うのも無理もないだろう。
 人間の立場から見れば、神に近づこうとした人間の暴挙を許せなかったのではなく、人間の能力が、実際に神に近づくだけのものになってしまったことで、神が焦りを覚えて、
「人間どもが自分たちに近づくという脅威を取り除くためにも、今のうちに神としての力を見せつける必要がある」
 と考えたとは言えないだろうか。
 それだけ人間は能力を持ったということを言いたいのだろう。
 全能の神もが恐れる人間、人間の立場から見れば、そういう理解の方がもっともらしい。しかし、宗教として信じている人がいるのだから、全能の神は全能でなければいけない。そのために、苦肉の策として、このような話を作り上げたとも考えられないだろうか。
 いわゆる、
――でっちあげ――
 の発想である。
 でっちあげだと考えると、奴隷を始めとする人間が、散り散りばらばらになって、言葉も通じなくなったという説明もつく。今のようなたくさんの民族の存在や、文化や風俗、宗教によっての違いから戦争が起こってしまうという理屈が存在すれば、戦争という行為の正当性も説明が可能ではないかとも思えるだろう。
 天国と地獄という発想からいろいろな発想が浮かんでくる。
 宗教の発想、そして民族の発想、戦争や疫病、それらの社会不安から生まれた宗教や、「あの世」という発想。
 一部の宗教の発想として、
「この世では救われない人が、あの世では救われるために信じるものが、宗教である」
 というものではないだろうか。
 宗教を毛嫌いしている人であっても、この発想のすべてを否定することはできないのではないだろうか。弱者が何かにすがるという考えは、弱い者だからこその発想であり、宗教を毛嫌いしている人のほとんどは、その弱者に入る人に違いない。
 この世で、弱者と強者を分けるとすれば、そのほとんどが弱者に相当するに違いない。弱者と強者でその力配分を均等だと考えると圧倒的に少ない強者の力が絶大だと思われがちだ。だから、この世情が不安定になったり、治安や風紀が乱れるのも仕方のないことだろう。
――その力関係に矛盾を感じることで生まれてきたのが宗教という考え方だ――
 と考えると、宗教の生まれたいきさつを想像することも不可能ではないかも知れない。
 あの世というと宗教だけで考えられているものだけではないことをほとんどの人が考えているかも知れないが、やはりどこかで宗教と結びついていることだろう。それだけこの世での宗教という存在は、意識するしないにかかわらず、生活の中に染みついてしまっているものなのではないだろうか。
 あの世についていろいろ考えていく中で、おとぎ話の中に出てくるものもある。
 たとえば、極楽浄土という意味では、この世ではありえない幸せな毎日が繰り返されるという意味で、浦島太郎に出てくる竜宮城もその一つではないだろうか。
 海底をテーマに繰り広げられているが、明らかに極楽浄土の世界である。浦島太郎がカメの背中に乗って竜宮城に行くという設定になっているが、息継ぎもせずに、どうして行けたのかという疑問もある。
「おとぎ話なのだから、細かいところを詮索しない」
 という楽天的な考えもあるだろうが、一度疑問を持ってしまうと、疑問は果てしない無限ループに陥ってしまうような感覚に陥るだろう。