「あの世」と「寿命」考
相手の非を指摘しただけなのに、こんなに空気が凍ってしまう雰囲気を作ってしまったのがあたかも綾子であるかのように見ていると、まわりの視線を感じるのだった。
――きっと、ヒステリーな女だって思っているに違いないわ――
まわりの視線にそう感じさせられる。
綾子は自己嫌悪に陥る状況に追い込まれ、自分が悪くないと思いながらも、次第にこの状況を招いたのは自分であることを自覚してくると、もう抗うことができなくなってしまった。
そんな綾子を救ってくれる人は誰もいない。当の本人は指摘されたことで萎縮してしまい、完全に自分の殻に閉じこもってしまって、自分のことだけで精一杯になっている。
――何よ。そんなの卑怯じゃない。私だけを悪者にすることしかありえない状況をいったい誰が作ったのよ――
確かに綾子が言葉を発したことでできてしまった状況だが、それは綾子が望んだことではない。
――我慢できなくて指摘しただけなのに、こんな状況に追い込まれるなんて、完全にこの男の確信犯でしかないわ――
としか思えなかった。
綾子は逃げ出したい状況に追い込まれたのだが、身体が動いてくれない。完全に凍り付いてしまったまわりの雰囲気に自分が飲まれてしまったのを感じていた。
綾子の堪忍袋が切れてしまったとすれば、この時だっただろう。だが、この時には自分の堪忍袋が切れてしまったことに気付かない。気付かないので、相手に別れを告げた時も、綾子は自分の中に少しだけ後ろめたさがあった。
本当は啖呵を切って別れてもいいくらいなのに、自分にも悪いところがあるかのように相手に別れを告げる。相手はまるで分かっていたかのように、抗うこともなく別れを受け入れているようだったが、それもまた綾子に苛立ちをもたらせた。
――なんで、こんなにアッサリなの? 私のことが好きで付き合ってほしいって言ったんじゃないの?
と思い、やるるせない気分にさせられる。
別れを告げて、抵抗もなく別れられるのであれば、それが一番ベストなはずなのに、どうにも釈然としない気分にさせられる。まるで自分が悪いことをしているかのような後ろめたさを感じさせられる。
そんな時、
――私は、どうしてこの人を許せないと感じたんだろう?
と考えてしまう。
明らかに我慢できずに苦言を呈したあの時に間違いないはずなのに、綾子は堪忍袋が切れた瞬間を覚えていないのだ。
その時には、
――ブッツン――
という音をハッキリと聞いたはずだったのに、その音の感覚すら耳の奥に残っていないのだ。
円満に近い形で別れたはずなのに、どこかに違和感がある。そんな別れを何度経験したことだろう。
――私が男性をお付き合いなんて、できっこないんだわ――
と別れてからはしばらく感じていた。
しかし、我に返って落ち着いてみると、
――私が付き合うことになる男性が、今までロクな相手ではなかっただけなんだわ――
と開き直りの気分になる。
確かにそんな男性ばかりではないはずである。しかし、肝心なことは少なくとも今までに自分に告白してきた男性は、臆病で潔癖症の男性ばかりだったという事実である。これから先、それ以外の男性に告白を受ける可能性は、本当にあるのだろうか? そのことを敢えて考えないようにしていた綾子だった。
これはポジティブに考えているわけでも、楽天的な考えでもない。自虐になる一歩手前の状況であることに綾子は気付いていた。一歩踏み出せば自分が他の男性から告白される状況にはないことは分かりそうなものだ。考え方を減算法にするのか、加算法にするのかで違ってくるのだろう。
今までの綾子は、加算法が多かった。何もないところから新たに組み立てていくことが好きだと思っていた綾子には、妄想癖があるのだろう。夢に見たことは思い出そうとしても思い出せないので、自分で妄想してしまったり、あの世のことを考えてしまうのも、そんな加算法な考えが功を奏しているのではないかと思うのだった。
しかし、それは幻想的なことへの憧れのようなものであって、現実世界の出来ごとであれば、それは減算法でしかありえない。百から次第に一つずつ減って行って、やっと納得のいくところで落ち着くことになる。
――だけど、納得のいくところを見つけることができないと、どうなってしまうのだろう?
と綾子は考えることもあった。
――ゼロになるまで考えるんだろうか?
と思ったが、綾子の中で、ゼロという発想もありえなかった。
――限りなくゼロに近いもので落ち着くんじゃないかしら?
と思うと、自分の前後、あるいは左右に置いた鏡の中に見えている自分の無限ループが想像できた。
どんどん、自分の姿が小さくなってくるが、決して消えてしまうことはないはずだ。それを思うと、これこそ、
――限りなくゼロに近いもの――
と言えるのではないかと考えていた。
これも綾子の独創的な発想である。決して他の人ではこんな想像ができるはずはないという思いがあり、これが、
――私は他の人と同じでは嫌だ――
という気持ちにさせられる要因だと思っている。
綾子は付き合った男性とは、別れたことによって、彼らを否定することはできなかった。むしろ、
――あなたたちの性癖は、私が認めてあげるわ――
と思っていた。
付き合っていることで当事者としては我慢できないが、一歩下がった感覚で見る分には抵抗がなかった。だから綾子は別れた男性たちとは、それからも友達の関係でいることができる。それは憎み合って別れたからではないという思いと、やはり相手との最適な距離というのを自覚できるようになったからだと思っている。
綾子は人間関係において、自分が男性よりも女性の方が付き合いやすいと思うようになったのはこの頃だったが、実はその考えが間違っていることに気付いたのは、やはり別れた男性たちと友達として付き合っていけるようになったからであろう。
別れた男性たちと、友達付き合いをしていると裕子に話した時、
「へえ、そうなんだ。綾子らしいわね」
と言われた。
その言葉に抑揚がなければ、まるで他人事のように聞こえるかも知れないが、綾子には決して裕子が他人事のような気持ちで話しているわけではないことは分かっていた。
「そう言ってくれるのは裕子だけだわ」
と言ったが、それを見て裕子はニッコリと笑った。
「そんなことはないわ。皆そう思っているわよ」
とでも言われれば、それは社交辞令でしかないことを綾子は分かっていた。そんな社交辞令は綾子には不要だった。逆に社交辞令などを交えられると、せっかくの関係も凍り付いてしまうことを分かっていた。
綾子はなぜか同性の友達がほしいとは思わなかった。もし、最初に友達になったのが裕子でなければ、他にも同性の友達を何人か作っていたかも知れない。だが、他に友達ができたとして、裕子ほどたくさんの話ができるような関係になれるとは思えなかった。
それでも一度他に友達を作ろうとしたことがあった。裕子と仲良くなりかけた頃であったが、友達になろうとしたその人を見ていると、
――どこか物足りない気がする――
と感じるようになった。
その思いを相手は悟ったのか、相手の方から避けるようになった。
作品名:「あの世」と「寿命」考 作家名:森本晃次