短編集47(過去作品)
あれは人を待っている時だった。人といっても友達ではない。女性とデートの約束をして、相手がなかなか来なかったので待っていた時だ。家庭の事情ですぐに来ることができず、高校生だった三宅もまだ純朴で、彼女に連絡を取ろうと思わずに、待っていることが大切だと思っていた時だった。
最初はさすがに五分が一時間にも感じていたが、次第に待っているのが億劫ではなくなってくる。時間への感覚が麻痺してきていたのかも知れない。
待つことも慣れれば快感になってきた。三十分もしないうちに、時間の進みがあっという間に感じられるようになっていた。
彼女がやってきたのはそれからすぐだったが、
「ごめんなさい。こんなに待たせてしまって」
しきりに謝っている彼女を見ると、自分の立場が優位にあることに気付き、気持ちが一気に余裕に満ち溢れてきた。
――待たされるというのも悪くない――
それから時間の感覚を短く感じる時は、いいことの方が多いんだと思うようになっていた。
店の中にいる連中も同じかも知れない。表情に焦りはなく、ほろ酔い気分で赤くなった表情には笑みしか見えてこない。
彼女に呼ばれて行った男はどうだろう? 相変わらず表情に変わりはない。無表情と言ってもいいが、その中に余裕のようなものを感じるのはなぜだろう。
彼女の顔はニコニコしているが、他の男たちに比べると余裕を感じない。それが何とも寂しさを誘うように見えるが、却ってそれが彼女の魅力に見え、妖艶さを醸し出しているのは皮肉なものだ。
無表情の彼女を誰も他の男たちは気にしていない。選ばれなかったことへの悔しさはまったくないのを不思議に思っていたが、無表情の彼女を見ていると分からなくもない。だが、まだ一度も選ばれたことのない男にとって彼女の表情は妖艶以外の何ものにも見えない。それだけに、
――次こそは――
と虎視眈々狙っていることだろう。
テーブル席では男は相変わらず無表情である。女の頬が見る見る紅潮してきて、これから何かが起こるような雰囲気を醸し出していた。
女はおもむろに立ち上がったかと思うと、男の膝の上に正面を向いて座り、ディープキスをした。
驚いて見たのは三宅だけだった。他の男たちは目の中に入っているはずなのに、さほど気にしていない様子だ。だが、視線だけは向いていて、その表情には厭らしさが浮かんでいた。
――これがクライマックスだったんだ――
きっと他の男たちは自分がされた時のことを思い出しているのだろう。厭らしさを含んだニヤけた表情がそれを物語っている。
キスをされた男は無表情から少しずつ頬が紅潮し、恍惚の表情へと変わっていく。意識がない中で、どんな気持ちでいるのだろう。きっと夢見心地に違いない。
「フレンチキス」という言葉があるが、イメージとしては軽いキスをイメージしている人が多いかも知れない。フランスがそういうイメージにあるからだろうか、フレンチキスと聞いて、ほとんどの人が、
「口付けというイメージのキスなんだろうね」
と答えることだろう。
だが実際には激しいキスで、ディープキスのことである。目の前でこれほど激しいキスをいまだかつて見たことがない。見たとすればドラマで見たくらいだが、自分がしているイメージになったことは一度もない。
三宅にはキスに対して自分なりのイメージがあった。
最初に付き合った女性というのが年上で、告白も相手からだったこともあって、女性の方が積極的だった。
高校の頃、待ち合わせをした女性とは付き合うまでは至っていない。いい雰囲気にはなったのだが、時すでに遅く、彼女は親の都合で引っ越して行った。
いや、ある意味よかったのかも知れない。なまじっか付き合い始めてすぐに別れることを思えば付き合う前だったのは不幸中の幸いと言えないだろうか。
あまりショックを受けることもなく、普通の高校生としての生活をしていて、同じ電車で通っている女子大生が三宅を気に入ったのだ。
三宅は自分では分からなかったが、母性本能をくすぐるタイプのようだった。
「意外と惣一君は私たちの中では人気があったのよ。皆、かわいいって言ってたもの」
と付き合いだして彼女から言われた言葉だった。
彼女は三宅が今まで誰とも付き合ったことのない男性であることをすぐに分かったようだ。
「だって、見ていれば分かるもの。恥ずかしそうに女の子を見る目なんてかわいいわよ」
「えっ、僕がそんな目をしていたの?」
「自分で気付いていないところがまたかわいいのよ。無意識の視線って、意外と相手には分かるものなのよ」
ひょっとして彼女と知り合う前から、彼女は三宅の視線に気付いていたのかも知れない。その考えに間違いはなかった。
「惣一君の視線はすぐに分かったわよ。でも、本当に最初は誰の視線か分からなかったのよ。次第に視線が強くなってくるところは、きっと自分に対してそれなりに自信を持っているからかも知れないわね」
「そんなことないよ。いつも自分に自信がないって悩んでいるもん」
「そうなのよ。すべてが無意識なのよ。下手をすれば怖いんだけど、惣一君は役得なのかも知れないわ。誰も嫌な目で睨み返したりしてこないでしょう?」
確かにそうだ。人の視線には敏感な方だと思っているので、睨み返されたりすればすぐに分かる。自分の視線も無意識なら、自分の視線を浴びた女性が返す視線もさりげないものなのに違いない。何とも言えない気持ちになってきた。
その時の彼女は普段からタバコを吸うような女性だった。昨今、男性よりも女性の方がタバコを吸う比率が高まっているので不思議はないのかも知れないが、
「ごめんなさいね。タバコ吸ってもいいかしら?」
と、礼儀正しいところが気に入っていた。
今時これほど礼儀正しい女性も珍しい。三宅が彼女を気に入った理由はそこにあった。
彼女からしてみれば、ただの遊びか気まぐれに近かったのかも知れない。それでも三宅は有頂天だった。
「私たちが付き合っているってことは誰にも言わないでね」
と言われて、健気に言いつけを守ったものだ。
「付き合っている」
という言葉に魅了された。
それまでは一緒にいても付き合っているなどという感覚はなかった。
――まさかこんな美人が僕のような冴えない高校生をまともに相手にしてくれるはずなどない――
と思っていたからだ。
何度夢かと思って頬を抓ろうと思ったことか。それこそ愚かな行動で、そこまではしなかったが、付き合っているという言葉をこの耳で聞くまでは信じられるわけもなかったわけだ。
茶色い髪の毛がサラリと肩まで伸びて、スレンダーな身体は華奢にも見えて、その華奢な肩幅を長い髪の毛が隠している。赤いスーツ系の服が似合い、まるでOL風の服装は、ある意味女教師にも見え、つい従順な気持ちになってしまうのはそのあたりに原因があった。
「かわいいわね」
と言われて有頂天になるのも当然のことだった。
初めてのキスがどこだったか、ハッキリと覚えている。
彼女は車を持っていたが、普通女性であれば軽自動車のイメージが強いが、車種までは分からないがスポーツカータイプの車で、しかも服装に合わせてか真っ赤な車だった。
作品名:短編集47(過去作品) 作家名:森本晃次