短編集47(過去作品)
ハプニング
ハプニング
「本能って言うのかね。ああいうのを」
とマスターがポツリと呟いた。店の名は「エンジェル」というスナック、その日はまだ早いのか客は誰もおらず、カウンターに一人座ってマスターがグラスを拭いているのを、水割りを口元に運びながら聞いていた。
客の名は、三宅惣一。この店に来るのはまだ二回目だ。一週間前に一度来たのだが、その時は客が満員に近かった。
今日はまだ六時すぎ、どこの店でもまだ用意が整っていない時間で、
「ちょっと早かったかな?」
と言って、店に入ってくるくらいの時間である。
「いえいえ、構いませんよ。まだ女の子も来ていませんが、ゆっくりやっていてくださいな」
という会話になることは最初から分かっていた。
その日は木曜日、何かを期待してきたのは、前に来た時のことが忘れられないからだ。店も気に入っているので、
――ハプニングが起こる前の静かな店も見てみたい――
という気持ちがあったのも事実で、三宅にとってその日は、この時間まであっという間だったような気がして仕方がない。
以前に来た時には感じなかったものを感じていたが、思い出すのはどうしても一週間前の店での出来事だった……。
その日はすでに午後九時を回っていた。仕事の帰りに食事を済ませ、そのまま帰ってもよかったのだが、ふと軽く呑みたくなって以前から気になっていたスナック「エンジェル」の扉を開いたのだった。
店はこじんまりとしていて想像していたように小綺麗だった。
――満員でなければもっと綺麗に見えるかも知れない――
と感じたほどで、今日来たのも、それを確かめたいという気持ちがあったからだ。
満員になっても十名そこそこなのに、三十人近くいるのではないかと思えるほどの賑わいを見せていた。客のほとんどは男で、それぞれ常連なのか、隣の席に座った人と話をしていた。
奥にテーブル席があるが、そこは空いていた。店に入って感じた異様な雰囲気は、テーブル席に誰もいないのを見たからかも知れない。
すぐに注文する気にもなれず、席に座ってあたりを見渡していた。席もカウンターの隅しか空いていなかったので、そこに座ることにした。元々カウンターの隅は嫌いではなく、客がいなくとも、端に座るはずだと思っているので、それほど気にはならない。
却って店内全体を見渡すことができる。それが嬉しいくらいだ。
「いらっしゃいませ。お客さん、初めてですね」
その時カウンターにいた女の子がお絞りを差し出してくれた。それを両手で受け取ると、
「はい、そうですね。前から気になっていたので入ってみたんですが、えらく賑わっているのでビックリしているんですよ」
「そうですか、でもこの賑わいはいつものことじゃないんですよ。カウンターの中も普段女の子は二人なんだけど、今日は三人いるでしょ?」
確かに言われるとおりだった。
ということは、今日は最初から客で満員になるということが分かっていたということだろうか?
「それにしてもすごい賑わいだね。最初から分かっていたのかい?」
「そうですね。大体、木曜日はこんなものですね。それも毎週というわけではないんだけど、隔週と言ったところかしらね」
何があるというのだろう。少し楽しみになってきた。最近あまり会社でもいいこともなく少しストレスが溜まっている。変わったことが見れるのであれば、それも気分転換になっていいだろう。
しばらく呑みながらまわりの話に耳を傾けていた。やはり皆元々からの知り合いというわけではなく、この店でだけの知り合いという雰囲気だ。逆にその方が会話に花が咲くのだろう。会話はそれぞれ途切れることもない。
皆楽しみにしていることは一緒のようだ。
そろそろ午後十時になろうとしていた。皆呑みながら話しながらそれぞれに入り口を気にしている。扉が少しでも開こうものなら、それまで賑わっていた店内が一瞬にしてシーンとなってしまう。そんな雰囲気だった。
ちょうど十時を過ぎてまもなくだった。扉が開くと訪れた静寂の中に一人の女性が立っている。戸惑いながら立っている姿は、まるで処女のような恥じらいを感じ、男たちの視線を浴びてうろたえている姿に何とも言えない気持ちになってしまった。
――男たちの酒に酔ったいやらしい視線に晒させたくない――
という思いと、
――恥じらいがある女性ほど淫靡に見えてきて、この雰囲気をずっと味わっていたい――
という思いとが交差していた。どちらが本当の自分か分からなかったが、どちらも本当の自分なのだろう。ただ、両極端な思いを一緒の時間に描くことなどなかっただけに、その時の雰囲気がとても異常であったことには違いない。
――これを皆待っていたのか――
これから一体何が始まるというのか、男たちの目に晒されながら、女はテーブル席へと移動した。
テーブル席は彼女のために用意された席だったのだ。だからどんなに混んでいても誰もテーブル席へと移動しない。彼女が来る日はその場所は聖域になっているに違いない。
年齢的にはいくつくらいだろうか? 店内の照明は暗く、ハッキリと確認することはできないが、若く見える。若くは見えるがしなやかな動きの中に無駄がなく、女性としての妖艶さを感じることができるのは三宅だけではないだろう。だからこそ他の客は彼女の登場を息を飲んで見守っていたに違いない。
店内が異様な雰囲気に包まれているのが分かった。
一人の男を彼女が手招きした。男が操られるようにやってくる。まるで催眠術に掛かったかのように近づいていく男は、すでに彼女の手の平の上にいるようにさえ見えた。
暗いテーブル席で会話が始まる。
他の連中も彼女が入ってくる前同様に会話を始めた。三宅だけが誰とも話し相手がおらず、ただテーブル席を気にしながらジョッキーを口元に運んでいた。
チラっと見ていて、男の表情が気のせいか赤らんでいる。てっきり会話をしているのかと思いきや、男は何も語らない。女が軽く話し掛けている程度だ。彼女の愚痴を黙って聞いているようにも見えるが、その表情には恍惚感さえ浮かんでいる。
「あれは催眠術なのかね」
「どうなんでしょうね。僕が呼ばれた時は後から思い出すと記憶にないんですよ」
どうやら、彼女はカウンターの中から男性を一人選んで自分の席へと招き入れ、話をしているのだが、話された方には記憶がないようだ。
――やはり催眠術なのかな――
それにしても、どうして皆悔しそうな顔をしないのだろう?
他の男が選ばれて行ったのに、誰の表情にも悔しさはない。逆に一人の男が彼女の話を聞いている姿を肴に酒を呑んでいる。やはり異様としか言いようがない。
時間的に三十分は経っただろうか。何もすることがなくただ一方向に集中しているといのがこれほど時間が経つのが早いものだとは知らなかった。
――気がつけばもう三十分も経っているなんて――
今までにも気がつけばあっという間だったと思ったことがあった。しかしそれは時間がずっと気になって、それまで小刻みに時計を気にしていた時に、
――まだ五分しか経っていない――
という気持ちの積み重ねがあった時だ。
作品名:短編集47(過去作品) 作家名:森本晃次