短編集47(過去作品)
と思っていたので、さしたる抵抗もなく事務をしている。実際には面倒なのは事務職なのだろうが、コツコツ一人でこなすことが似合っていると思っている孝子には、さしたる問題はなかった。
清正と知り合ったのは、就職して事務職にも慣れてきた頃だった。
年末の時期を通り越し、年明けくらいだっただろう。
「一月は行く、二月は逃げる、三月は去るって言うけど、この時期は自分で意識しているよりもあっという間に過ぎてしまうので、皆さん気をつけてください」
と、朝礼で支店長が訓示していたが、孝子も何度も頷いた内容だった。
この時期というのは、実際に過ごしている時は、むしろ時間を長く感じる。途中でふと思い返した時も、
――まだ一月の中旬なんだ――
と中途半端な時期であることを意識してしまう。
だが、本当にこの間が短かったと感じるのは、四月になってからだ。実際に過ごしている間は長く感じていても、過ぎてしまうとあっという間だったように思えてくる。そのことは逆も真なりで、あっという間に過ぎたように思えることでも、後から思えばこれほど長かったことはないと思うものである。その例として思い浮かぶのは、思春期だった中学、高校時代である。
「また試験の時期がやってきたわね」
春休みと夏休み、夏休みと冬休みの間に、それぞれ二回も試験があるのである。あっという間に時間が過ぎたと考えるのも無理のないことであるが、後から考えると、長かったように思う。就職して一年、ずっと研修で毎日が勉強の時期よりも、中学高校時代の方が長かったように思うのだから不思議なものだ。
研修の成果が事務職として現れ始めていったのが、ちょうど入社して一年経った頃だったのは、冬に清正に出会ったことで、気持ちにある程度の余裕と、忘れていたものを彼が思い出させてくれたように思えるからだろう。
忘れていたもの……。それは一歩下がって前を見ることが視界を広げるという考え方だったのだ。
会社に慣れてきたこともあって、孝子は春休みを利用して旅行に出かけた。目的地は春の奈良だった。京都の方がロマンチックなのかも知れないが、どうしても観光化が進んでいるという雰囲気もあり、奈良であれば、そこから京都にも行けるということもあり、まず奈良を選んだ。
大阪まで行って奈良へと向う。壮大な生駒山を見ながら進んでいると、京都とは違った歴史の重みを感じられ、心に心地よい重みを感じるのだった。
京都、奈良と一度修学旅行で訪れている。その時とは気分的には完全に違ったものだった。修学旅行というと、団体行動の中の一つで、自分勝手な感情を抱くことができなかった。やはり一人で自由に行動できることで、その土地の雰囲気を初めて味わうことができるというものだ、そういう意味で京都よりも奈良を選んだのは、京都の基礎になっているのが奈良だという思いが強いからだ。時代から行っても、平安時代よりも奈良時代の方が古い。基礎はそこにあるのだ。
元々パイオニアという言葉は好きな方で、何でも物事は最初にした人が偉いと思っている。その後、どんなに素晴らしい改革がなされても、最初に考えた人のことを考えてしまうのが孝子の性格だった。
「ふぐにしても最初に食べた人は勇気が行ったでしょうね」
などという話を聞くと、うんうんと何度も頷いたものだった。
奈良を中心とした関西旅行には三日間の休暇を取った。それ以上はさすがに難しいし、戻ってきて仕事を始めるにしても、それ以上仕事から離れることは自分でも怖かった。
一人で違う土地を歩いていると、まるで違う人になったように感じられることと、あるようでないような余裕を感じるから不思議だった。仕事から離れて気持ちに余裕ができたはずなのに、どこか一抹の不安を感じる。女性の一人旅とは、えてしてそういうものなのかも知れない。
元々予定を立てての行動をする方でない孝子は、気ままな観光をすることが自分に余裕をもたらすと思っていたが、そのすぐ裏には不安が付きまとっていることを改めて知った。絶えず余裕を持つことに気を配ってきたつもりだが、気を配るということ自体、余裕のないことを示しているようで、そこから生まれるのが不安なのかも知れない。
一人でいたいという思いが、不安につながり、寂しさに繋がるとすれば、それは悪循環である。
――心のどこかで出会いを求めているんだわ――
旅行先で誰かと知り合うというシチュエーションが孝子にとって夢のような話である。
相手はもちろん男性で、まったく知らない人であっても、知っている人であっても、それなりに気分の違いこそあれ、違う土地だという開放感があるだけに、醍醐味でもある。
そんなことを考えている時、ちょうど清正が奈良に出張で来ていたのだ。
奈良市内の観光地は、それほど広い範囲にまたがっているわけではない。市街地には平城京跡や、薬師寺、遠く離れたところに法隆寺や明日香、吉野と行ったところも奈良の観光地として存在している。
奈良市内を観光していると、奈良公園の端に猿沢の池というところがあるが、五重塔が池に写っているのを見ている時だった。清正から声を掛けられて振り返ったが、最初は顔を見てもピンと来なかった。
清正は孝子がルートでセールスをしている会社の社員であったが、営業であるにも関わらず、彼女が清正の会社を訪れた時には必ずいたのだ。
「あなたが来る時って、なぜか事務所にいることが多いんですよ」
ノートパソコンに向って営業資料を作っている時に、いつも訪問しているようである。孝子としては、決まったルートセールス。一週間単位で決めたコースを三ヶ月ほど続けることにしているので、清正の行動パターンと重なっても不思議はないが、清正がどう感じているのか分からないが、素直に感心しているようだった。
「毎週顔を合わせていると、気心も知れるってものですね」
「ええ、どうですわね。でも、なかなか保険には入ってくださいませんわね」
皮肉を込めて話したが清正は動じない。
「他でもう入ってますからね。でも、いずれは見直すこともあるかも知れませんよ」
と含み笑いを浮かべるが、
「その時まで、私がここの担当ならいいんですけどね」
とサラリとかわした。お互いに大人の会話だと思っているのかも知れない。
「僕の両親は歴史が好きだったんですよ」
「加藤清正が好きだったんですか?」
「そうだね。父親は九州の熊本出身だったので、清正ってつけたらしいんですよ。子供の頃には結構名前で苦労したものですよ」
「立派な名前をつけられると、それがプレッシャーになったりするものですよね。逆にそんなつもりはなくとも、同じ名前の人が犯罪を犯したりすると、たまったものではありませんしね」
「そういう意味では、清正なんて名前はあまり今の時代いないですからね。ある意味よかったのかも知れません」
そう言いながら声を立てて笑う清正を見ながら、孝子も心底おかしさがこみ上げてきた。人の名前で笑うのは失礼に当たるとは思ったが、堪えきれずに笑ってしまっていた。その場だけ他から浮いてはいたが、少なくとも孝子は和やかな気分にしてもらったことを覚えている。
作品名:短編集47(過去作品) 作家名:森本晃次