短編集47(過去作品)
根拠としては、話し始めてすぐには、彼女の会話には違和感はない。話をしているうちに記憶に欠落があり、そのまわりで繰り返し何かを訴えていることに気付くのだ。人によっては、
――鬱陶しい人だな――
と感じる人もいるだろう。会話が進まないのだから、友達としても、
――どこかが違う――
と思うはずである。
逆に話が通じてくればこれほど話しやすい人もいない。相手が純粋であることに気付くからだ。純粋なだけに一途で、一途になられると一歩引いてしまう人もいるだろうが、そんな人が本当の友達になれるはずもない。最初から話をまともに聞いていなかった人だろう。軽薄な性格の人は最初から受け付けないに違いない。
――俺も軽薄なタイプだと思っていたんだけどな――
最初から逃げ道を作っている人に多いかも知れない。好きになっても、心のどこかで、
――もしうまくいなかくなっても、落ち込まないように最初から覚悟しておけばいいんだ――
という思いである。しかし、杉下はそれほど自分が器用な人間ではないと思っていたが、どうしても逃げ腰なところもある。そんな自分を思い返して、
――二重人格かも知れないな――
と思うこともあった。
しかし、早苗に関しては逃げ腰な性格が表に出てこない。欠落しているところを知りたいと思うのは山々だが、それを知ってしまったために、せっかく気心が知れてきたと思っている関係を崩したくない。なるべく相手の気持ちを刺激しないよう、まるで腫れ物に触るかのように振舞っていた。
今まで早苗のまわりにはどんな人がいたのだろう。刺激しないようにしようと考えていると、早苗が少しずつ遠ざかっていくように思えてくる。
――警戒しているのかな――
明らかに怯えが見える。それも杉下に対してで、早苗のような女性には却って気を遣うような素振りを見せてはいけないのかも知れない。
付き合い始めて数ヶ月、男としては、彼女とそろそろ肌で触れ合いたいと思うのは自然な気持ちである。
意識していないつもりでも、早苗の身体を見つめる目は、今までと違っているだろう。そのことは杉下にも自覚としてあった。早苗も杉下の視線を感じているに違いない。
今まで腫れ物に触るように、大切に育ててきた感覚でいた。温かい目で見つめていたのは、包み込むような心境からである。しかし、その中に男としての感情があらわになっていたわけではなく、自然に暖かい目で見ることができたのだ。
だが、時期というのは存在しているのだろう。男として女を見始めるのに時期があることをその時に初めて知った。
前の日までは明らかに男としての意識はなかった。だが、その日、何があったというわけではないのに、男としての女性を見ることを思い出したのだ。
もし、時期があるとすれば、それは男の方からの意識ではないだろう。女性が男性を求める目を感じることで、男が女を意識する。逆にいえば、それまではただのガールフレンドといってもいいくらいの関係だったに違いない。
――女性からの視線で自分が男であることを思い知る――
そんな関係が杉下の恋愛だと思っていた。
杉下は早苗の視線に、女を感じたのだ。だからこそ、女性として早苗を見ることができる。今までに付き合った女性であれば、視線を感じてから後は、とんとん拍子である。ほとんど抵抗らしい抵抗はなく、女性と一線を越えることができた。
――これこそ筋書きのあるドラマみたいだな――
野球が筋書きのないドラマと評されるのとは逆の感動がある。自分で感じる筋書き通りに事が進むことほど快感はないであろう。
だが、早苗は違っていた。感じたはずの女の視線を感じなくなった。感じないばかりか、感じたはずの視線すら思い出せないのだ。
――勘違いだったのかな――
と思ってみても、一旦火がついた感情を元に戻すのは容易なことではない。男としての戸惑いがそこにあり、早苗と目を合わせるのが辛い時期すらあった。
――少し強引に迫ってみようか――
明らかに焦りである。だが、そこをぐっと堪える術を杉下は持っていた。
すると、ある日、早苗の方が誘ってきた。
――どうもいつもと様子が違うな――
とは思ったが、それ以上疑わなかったのは、それだけ早苗との交わりを心待ちにしていたからかも知れない。後から考えると、明らかに違っていた。顔は上気し、目は虚ろである。まるで酒に酔った勢いのようではなかったぁ。
しかし、早苗の身体は敏感だった。一点を責めると、身体をくねらせながらはぐらかす雰囲気は、大人の女である。
それでも集中して責めると身体の奥から悦びを滲ませ、身体全体で答えてくれる。
杉下にとってこれ以上の喜びはなかった。自分の理想とする女性に出会ったような喜びである。欲望を放った後、虚脱感や憔悴感に苛まれるはずの時間も、満足感がすべてを覆ってくれた。心地よさを与えてあげなければならない立場の男が、相手から与えられた。いや、いつまでもお互いの肌が触れ合っていることが一番の喜びだったに違いない。
次第に襲ってくる睡魔、早苗の横顔を見ていると、安心感から眠りに就いてしまっていたようだ。
気がつけば目が覚めていた。スヤスヤと眠っている早苗の横顔は最初と変わらぬ表情で、幸せそのものであった。
その時だった。
「お父さん」
早苗は一言発し、グイと杉下に抱きついてくる。
早苗の身体がさらに熱さを増してきた。それまでどんなに身体を密着させて熱くなっていたとしても、汗を感じなかった早苗の身体から、汗が滲んできた。
汗が発しているのだろうか、匂いもきつくなっている。だが、この匂いは決して嫌な臭いではない。女を感じさせる匂いで、まるで女性ホルモンを活発化させたような感じではないか。
――メスがオスを誘う時に発する匂いがあるとすれば、まさにこんな匂いなんだろうな――
杉下が今までに抱いた女性でこのような匂いを感じた女性は一人もいなかった。
――それにしてもお父さんとは――
杉下の中に言い知れぬ思いが宿った。抱いている相手が別の男性の名を叫んだ時に感じる嫉妬のようなものである。
――この匂いがなければ――
後から思えばすべては匂いだったのかも知れない。
抱いている腕が震えているのを感じる。腕に力が入って、抑えることができなくなってしまっている。早苗に対しての怒りでは決してない。父親に対しての怒りからでもない。早苗を離したくない一心だったのだ。
すると早苗の腕にも力が入り、
「い、痛いわ。お父さん」
と叫んだが、嫌がっているようではない。先ほど自分にしたように巧みに身体をくねらせるのだ。
「やめて、お父さん……」
一瞬たじろいだかと思うと、その表情に怯えが走った。一気に顔が青ざめているようだった。それでも必死になって堪えているように身体を硬直させると、さっきまでの汗が一気に引いてきた。
だが、一旦汗が引いてしまうと今度はまた汗が吹き出してくる。先ほどの淫靡な匂いが漂ってきた。
「お父さん……」
早苗はまたさっきと同じ気持ちに陥っていた。
――早苗の記憶の欠落は、このあたりに原因があるのかも知れない――
と感じた。
作品名:短編集47(過去作品) 作家名:森本晃次