短編集47(過去作品)
大学の二年生になって、やっと彼女ができた。それまでは作ろうという意識が強すぎて、必要以上に肩肘に力が入っていたのかも知れない。恋人とのデートなど、勝手な想像を膨らませ、誇大妄想が自分の中で限界を感じている世界を飛び出そうとしているからではなかっただろうか。
もがき苦しむ時間というのは、後から考えると他愛もないことだった。
――どうしてあんなに悩んだのだろう――
その時の時間の長さがもったいないというよりも、却って懐かしく感じるくらいなのも面白い。
他愛もない時間というものほど長く感じられるものもない。だからこそ懐かしく感じられ、今よりもよかったのではないかという気持ちになることさえあった。
あまりにも自分の理想に近づくと、不安にもなるもので、それを見透かされたのか、せっかくできた彼女とは数ヶ月で別れてしまった。
最初はうまくいっていたはずである。それがどこでおかしくなったのか、杉下にはまったく分からなかった。
「あなたと一緒にいると気持ちに余裕が持てないの」
理由はいろいろあったようだが、彼女もハッキリと口にできる部分が少ないようだった。その中にこの一言が杉下にショックを与え、自分の中で消化できないわだかまりとして残っていた。
――余裕を持つために付き合ったはずなのに――
と感じていたが、別れを切り出されると、自分の中で何かが弾けてしまい、彼女を追いかけなくては気がすまなくなっていた。嫌われるのを覚悟にである。
早苗との会話は、ほとんどなかった。店にいても、何を話していいか分からない時がしばらく続いたからだ。
それは会社の江藤香織にしてもそうだった。
――学生時代と違って、自分に自信を持っているはずなのに――
社会人になって、大きかった不安が少しずつ消えていく。そのことが自分に自信を持たせることになり、気持ちに余裕を持たせた。
その余裕が女性と知り合うきっかけになったと思っていただけに、女性を前にしても、話題性には自信があったはずである。
もし相手と話題が合わないまでも、何とか合わせることができるだけの雑学は、学生時代に本を読むことで培ってきたはずだった。それでも合わない時は強引に合わせたり、当たって砕けろの玉砕の気分で、
――ダメならダメ――
と開き直ってしまえば何とかなると思っていた。
――何を恐れているのだろう――
嫌われることを恐れているように自分では感じない。ひょっとして感じているとすれば、江藤香織と早苗の二人を同時に意識している自分に対しての嫌悪感かも知れない。
――俺ってそれほどデリケートな人間なのかな――
と思ってしまうが、実際にはそこまででもないはずだ。
江藤香織よりも、早苗の方を次第に意識するようになっていた。早苗を意識し始めると、早苗の方から話しかけてくるようになった。杉下には相手に自分の気持ちを察知してもらえるところがあるのかも知れない。これも長所であって、短所なのかも知れないと感じる杉下であった。
喫茶「アルタイル」でも、アルバイトの女の子が杉下と早苗のことを気遣ってくれていた。二人がカウンターの隣に座ると、洗い物を少し離れてするようになったのである。無言で会釈する杉下に女の子は笑顔で返す。暗黙の了解の心地よさを杉下は感じていた。
しかし、どこか早苗の会話にはぎこちないところがあった。さすがに最初は会話の中に恥じらいを持っていて、それが男心をくすぐり心地よかったのだが、ある程度会話に慣れてくると、同じことを繰り返して話しているように思えてならなかった。
恥じらいから慣れてくれたのは嬉しかった。
――やっと心を開いてくれたんだ――
と感じたからで、会話というよりも、自分のことを一生懸命に話そうとしている姿が見受けられた。
実は杉下にも同じようなところがある。
自分から心を開いた相手でないと、なかなか会話にならなかった高校時代を思い出す。それは今でも変わっていないが、大学時代に会話のキャッチボールのコツを掴んだことで、相手の気持ちが分かるようになると、会話をした相手に対して、嫌いでなければ自然と心を開けるようになっていた。
それでも、自分のことを分かってもらいたいと思うあまり、会話に夢中になりすぎると、まわりが見えなくなってしまったりしていた。
その証拠に、
「お前は声が大きいんだ。知らない人が聞くと俺が怒られているように聞こえるかも知れないぞ」
まったくの無意識なのだが、言われてハッとすることが多かった。
「まったくそんなつもりはないんだけど、必死になって相手に訴えようとする気持ちからだね」
気持ちに余裕がないからではない。どちらかというと逆で、気持ちに余裕ができすぎて、自分に酔ってしまっているのではないだろうか。
「声が大きくなるのは、ここにいるんだという自分をアピールしたい気持ちの表れらしいぞ。この間テレビで精神科の先生が話していたのを見たんだけどな」
もっともなことかも知れない。目立ちたいという気持ちは、自分の存在価値にまで結びつけて考えようとする人であれば、それも仕方のないことだろう。果たして杉下がそこまで考えているかは、本人にも分からないが、まわりからそう見られたのなら、否定できるものではない。
そんな雰囲気を早苗に感じた杉下は、早苗を意識せざる終えなくなった。まるで自分を見ているようだからである。その気持ちが恋愛感情に繋がっているかどうかは定かではないが、杉下の中で、このまま大きくならないわけはないという意識はあった。
――どこかに共通点があるんだ――
必死に訴えるのを聞いていると、同じことを繰り返して訴えているように思えてならなかった。
「人間、年を取れば同じことを繰り返して話すものさ。痴呆症とまで言っては失礼かも知れないが、どうしても、記憶が重なったりするんだろうな」
父親が話していたのを思い出した。だが、祖母の場合は明らかに誰が見ても痴呆症に違いなかった。
そういえば、祖母は晩年同じことを繰り返して話していたっけ。テレビのコントで見かけることもある会話であった。
「私、食事したかの」
「さっき、したじゃないですか」
「最近、おじいさんを見かけないねえ」
「おじいさんは、昨年亡くなりましたよ」
「そういえば、食事まだかね?」
といったような会話である。ここまで来れば痴呆症なのだろうが、相手している方にはものすごいストレスが溜まってしまうことは目に見えている。
杉下の祖母はそこまでひどくはなかったが、不思議なことに、学生時代の頃の記憶となるとしっかりしているようなのだが、つい最近のこととなると、からきし分からない。
「きっと意識が昔のしっかりしていた頃に戻っているのかも知れないな。ひょっとして自分が年を取ってしまったという意識がないのかも知れない」
と父がいうと、
「そんなことはないでしょう。それよりも、時間という感覚が麻痺していて、意識の中と、自分の身体とは違う感覚になっているんじゃないかしら」
と母が話していた。
作品名:短編集47(過去作品) 作家名:森本晃次