小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

短編集47(過去作品)

INDEX|14ページ/20ページ|

次のページ前のページ
 

欠落した記憶



                 欠落した記憶


 それまで江藤香織という女性を意識したことなどなかったと思っていた杉下だったが、実際にはどうだったのだろう。会社で仕事をしながら横目に気にしたことはあったが、ただ同じ部屋で仕事をしているだけという意識で、それ以上のことはなかった。
 しかし、偶然というものがそれ以上のことがなかったはずの意識を高ぶらせる。そんな時にふと通り抜ける風に感じる心地よさのようなものに似ているのかも知れない。
 杉下の会社はそれほど大きな会社ではなく、それだけに何でもこなさなければなかった。営業兼事務職のような立場にあるので、事務所で仕事をしていても、顧客からのクレームなどには即座に対応しなければならない。電話で済まされることならまだいいが、実際に現地に赴かなければならないこともしばしばで、そんな時、帰りには精神的に疲れてしまいぐったりしてしまうこともあった。そんな時に気持ちを癒してくれるのは、馴染みの店であった。
 学生時代に馴染みの喫茶店がいくつもあったが、大学からは離れているところに就職してしまったので、馴染みの店に顔を出すこともなくなった。それでも研修期間中に見つけた喫茶店を馴染みの店にしていたことで、何とか安らぎを保てると思ったのだ。
 しかし、純粋な喫茶店が激減してしまった昨今、馴染みの喫茶店一軒見つけることができなのも幸運だったのかも知れない。それだけ杉下の思い入れが強かったとも言えるのではないだろうか。
 喫茶店の扉を開くのは、ほとんどが昼下がり、西日の当たる窓際に座り、ブラインドを下ろすこともなく、スポーツ新聞を読んでいる。少々眩しくとも折り曲げて身体の影に持っていけば読めなくもない。それよりも、時々でいいので、窓の外の光景を見ることが気分転換になっていいのだ。
「杉下さんは、新聞を読んでいる時よりも表を見ている時の方が断然絵になるわね」
 アルバイトをしている京子ちゃんが話してくれた。
 彼女は、近くの短大の一年生で、まだあどけなさが残っている。何しろこの間まで高校生だったのだから無理もないことだが、彼女の高校時代は、きっと大人しいタイプで、喫茶店の雰囲気にとても馴染める感じがしないように思えた。
 いつも一人で窓際の席に座っていたなど、学生時代の彼からは想像もできないことだった。目立ちたがりで、人の中心にいないと気がすまないタイプだったからである。
 しかし、実際に人の中心になったことなどなかった。集団の中に身を置いていることは多かったが、中心になることはなかった。性格的に目立とうとしても、必ずおいしいところは人に持っていかれるタイプだったのだ。
 大学時代の親友数人と話していたが、
「杉下が最初に話しかけても、おいしいところはいつも誰かに持っていかれるから、なかなか彼女ができないのさ」
 ナンパの話題の時だった。
 確かにナンパに成功するのは杉下が声を掛けたおかげなのだが、結局、声を掛けた女性が杉下のそばにいることはなかった。
「お前は最初のきっかけを掴むのはうまいんだけど、なかなか進展がないんだろうね」
 と言われたがそれも分かっていることだった。きっと話題性に乏しいからに違いない。
 と言っても雑学的な話題は豊富だと思っている。仲間内で話をする時は、いつも中心にいる。しかし、女性と仲良くなるための話題にはならないのが辛いところで、いつも寂しい思いをしていた。
「お前はそれでいいんだよ。そんな杉下がいいって女性がきっと現れるって」
 慰めてくれているのだろうが、慰めになっていない。余計寂しさを掻き立てられるようで、精神的に複雑だった。
「そんなものかな」
 と苦笑いを繰り返すだけだが、最後は決まって、
「そんなものさ」
 と力強く断言されてしまっては、それ以上言い返す気力にならない。
 それでも、杉下は学生時代。彼女がいた時期の方が多かったかも知れない。しかし、長くても数ヶ月だけの付き合いで、それ以上はなかった。数人の女性を彼女と呼べる仲になっていたが、数ヶ月の付き合いでは、本当に恋人のような関係になった人はわずかであった。
 そんな時に言われた言葉が、
「最初、付き合い始めた時の新鮮さが、次第に薄れてくるのを感じるの。決してあなたを嫌いになったわけじゃないんだけど、お友達以上に思えないというのが本音なのかも知れないわ」
 お友達以上には思えないという言葉は、皆から言われた。うまく分かれる口実によく使われる言葉だと思っていたが、実際に言われてしまうと、それ以上反論できない。それなら、いっそのこと、
「あなたのことが嫌いになったので、別れたいの」
 とストレートに言われた方がいいかも知れない。
 その時はショックで少し尾を引くことになるだろうが、吹っ切れてしまえば、しこりは一切に残らないはずだからである。ただ問題はショックにその時の杉下が耐えられるかどうかであった。
 安らぎを与えてくれる喫茶店「アルタイル」では、最初本を読むことが多かった。
「本を読むと眠くなるんだ」
 という人もいるが、杉下はそうでもなかった。集中しているからだと思っている。だからこそ時間があっという間に過ぎていて、気がつけば夕方近くになっていることも多い。
「仕事大丈夫なの?」
 店の女の子に心配してもらうこともあったが、仕事は仕事、集中してこなしているので問題はない。
 会社から遠くはないが、会社の人がこの店に来ることもない。大通りから奥まったところにあり、他の客はほとんどが常連で占められていて、なかなか新参者が入ってくることもなかった。
 杉下のように馴染みになる店を探すという目的でもない限り、この店を訪れる人も少ないだろう。
 店の客のほとんどは近くに住んでいる人らしい。近くの商店街の人たちが立ち寄ることが多く、会話を聞いていれば景気の話しや店の苦労話や愚痴が多い。杉下には分からない話だが、聞いているわけではないが耳に入ってきても苦痛ではない。
「こんにちは」
 そんな中でも一人で訪れる女性がいることに最近気付いた。なかなか入ってくる時に自分から声を掛ける人も珍しいからである。
 馴染みになればなるほど、店の人から声を掛けられるのを待っている人が多い。面白い現象ではないだろうか。
 彼女も近くに住んでいるらしいのだが、女性が一人でやってくるというのも珍しい。年齢的にもまだ二十歳代前半、まだ未婚であろう。結婚していれば新婚になるはずなので、喫茶店でゆっくりできる時間などないはずだ。
 彼女は小柄で笑顔が似合う。笑えばエクボが浮かんでくる表情が杉下には一番印象的だった。だが、それだけ嬉しそうな顔ができるのに、会話が弾んでいるわけではない。どこか寂しそうな表情を浮かべる時があるのが気になっていた。寂しそうな表情を浮かべることで、エクボが浮かぶ表情が余計に映えて見えるのかも知れない。
 彼女が早苗という名前だというのは、二回目に見かけた時に知った。店の女の子から声を掛けていたからだ。
 会話の内容は他愛もないことであった。だが、思ったよりも話はすぐに終わってしまって、早苗は手に取った雑誌を読み始めた。最初から会話が続かないのを予期していたかのようである。
作品名:短編集47(過去作品) 作家名:森本晃次