短編集47(過去作品)
と思ったが、考えてみればそれなら辻褄が合うというものではないだろうか。
そんなファーストキスを思い出させるスナック「エンジェル」での“ハプニング”である。
催眠術が掛かったように女に吸い寄せられていく男、そしてハプニングの間、今度は無表情を装っていても、自分が催眠術に掛かったかのような表情を見せている女性を見ていると、高校時代の彼女のことを思い出す。
彼女とはそれっきりだった。付き合っているという意識の元、彼女の誘惑に負けてしまった自分に嫌悪感を持ってしまった。男としてのプライドが傷つけられたと思うほど三宅は硬派ではない。
だが、催眠術に掛かってしまった自分が怖くなったとも言えるだろう。自己催眠に掛かりやすいタイプだと言われたことがあるが、しっかりしているようで、どこか人に依存してしまいそうな性格は危ないらしい。人の催眠に掛かってしまうことで、自分が怖くなってしまったのだ。
彼女も三宅と会いたいと思わなかったようだ。
「なぜ私があんな行動を取ったのか、自分でも分からないの。あなたとは最初から普通の付き合いじゃないって思っていたからかしらね」
と言いながら、表情は実に冷静だった。
――ここまで冷静になられたんじゃ、太刀打ちできないな――
やはり彼女は「大人の女性」だった。大げさだが、三宅とは住む世界が違っている。男にとって認めたくないという気持ちが、彼女とはこれっきりと思わせるのだろう。
スナック「エンジェル」はまだまだこれからが架橋を迎える時間で、テーブルに座っている女性が帰ると、それまで黙って固唾を呑んで見守っていた連中が次第に騒ぎ始めた。もし、店内がそのまま静かだったら、
――まだ店にいてもいいかな――
と思ったかも知れない。だが、店内が騒ぎ始めたことで、シラケを感じた三宅は、お金を払ってすぐに店を出た。
「帰るにはまだ少し早いか」
あと一時間くらいはいるつもりだったので、時間的に中途半端だ。ここまで来れば家に帰って後は寝るだけにしておきたい。
酔い覚ましにいつもよりもゆっくり歩いていると、同じ道でもまわりの景色が少しずつ違って見えるのを感じた。
――これほどこの道って長かったかな――
と思えるほどに住宅街の道は長く感じられた。
小高い丘を頂点に、そこから先は下り坂。一直線に続いている。今までにも何度も夜の景色を見ながら帰ったことがあるはずなのに、その日ほど夜景を綺麗に感じたことはなかった。
――まるで視力がよみがえったようだ――
元々視力の低下を気にしていた。特に就職してからというもの、仕事中や運転中は必ずメガネを掛けている。普段道を歩く時には掛けていないので、普段はかなりぼやけて見える。信号機の赤いシグナルなど、メガネを掛けている時に見るよりも数倍大きくぼやけている。もちろん、夜景など見ていても明かりがボンヤリとダブって見えるので、綺麗だと思ったことなど最近ではなかった。
今までに綺麗に見えることはあったが、それは気持ち的にいまいちで、落ち込んでいる時ばかりだった。それも鬱状態の時、人と一緒にいることが億劫に感じられる時である。
鬱状態はいきなりやってくる。
いきなりではあるが、兆候はあるのだ。
――鬱状態に陥りそうだ――
と感じる時がある。それが急に視力がよくなったように思える時だった。特に夜景などのようにまわりが暗い状態で、明るさが点在しているような状況で視力の低下を身に沁みてきただけに、夜景が視力のバロメーターであることは言わずと知れていた。
――鬱状態への入り口なのだろうか――
と感じたが。今までの鬱状態への入り口とは少し違っている。今まではしっかりとした意識を持っている時に、
――あっ、鬱状態がやってくる――
と感じるのだが、今回は、しっかりとした意識があるのかどうか疑わしい。先ほどのスナック「エンジェル」で見たハプニングを期待しているようで、
――自分は見ているだけでもいいんだ――
という消極的な気持ちになっていた。
消極的な気持ちと意識がしっかりしていないことを直接結び付けていいのかどうか分からない。だが、見ているだけでまるで自分がされているような気持ちになりきれなかったのは事実である。
――もし彼女に選ばれていたらどうだっただろう――
という思いは、自分の意識への疑問であった。
小高い丘から景色を眺めながら歩いていると、途中に児童公園がある。住宅街の中にありがちな小さな公園で、普段ならまったく見ることもなく見逃して歩くのだが、なぜか気になっていた。
公園は普段に比べてさらに小さく感じる。
ブランコ、砂場、滑り台、たったそれだけの遊び場の奥は東屋のような屋根が六角形になったベンチがある。昼の暑い時間帯など、散歩する老人が利用するのが目に浮かんでくるようだ。
ベンチを見ると、そこには一人の女性が佇んでいた。その人は今しも立ち上がろうとしていて、あたりを見渡していた。
それを見ると思わず腰を低くして隠れてしまった三宅だったが、そう簡単に隠れられるものではない。彼女はそれに気付いていない様子で、ホッと胸を撫で下ろした。
どうして咄嗟に隠れるような仕草をしたかというと、その女性に見覚えがあったからで、かくいう先ほどまで見ていた人だったからだ。スナック「エンジェル」で催眠術を使ったかのように男に抱きついていた女性である。
まっすぐに立ち上がった姿はまるで幽霊のようで、歩いていく姿も人間とは思えないほどだった。頭がほとんど上下しないからである。歩くスピードや歩幅に比べてあまり頭が上下していないところは、両手をもし前に突き出していればそれこそ催眠術に掛かっているかのように思えるほどだ。
腰を屈めたまま、彼女の後を追いかけていた。
それほどスピードがあるわけではなく、ペースはゆっくりである。
――誰かにつけられているのを分かっているのかな――
と感じるのは、ちょうど三宅が彼女を見つけたその瞬間、彼女が立ち上がったからである。しかもまわりを見渡していた。明らかに誰かを意識しての行動ではないだろうか。
三宅の意識はしっかりしていた。
――自分は催眠術などに掛かる性格ではない――
という意識が強いだけに、さっきまでいたスナック「エンジェル」にて目の前で演じられた“ハプニング”には興味がある。
明らかに相手の男は催眠術に掛かっていた。だが、それだけではなく、催眠を掛けているはずの彼女すら、催眠術に掛かっているかのようだった。
二人とも催眠術に掛かったかのように繰り広げられたハプニングの空間、まわりにも異様な雰囲気を与え、まわりの人すら催眠に掛かったかのように見えていた。
――この俺も催眠に掛かっていたかも知れないな――
女の出現を店に来ていた客が待っていたことは間違いない。女が来ると皆固唾を呑んだのがその証拠だろう。だが、不思議なのは、待っていた女が他の男性を選んだのを見て、誰も悔しそうな表情をしていないことだった。しかも彼女が帰ってからも誰一人帰ろうとする人はいない。それぞれに会話の内容を持っていて、酒の肴には事欠かなかったではないか。何とも不思議な光景である。
作品名:短編集47(過去作品) 作家名:森本晃次