時間差の文明
――そういえば、さっき感じた、前にも見たことがある光景という感覚に似ている気がするな――
と思った。
以前にも、似たような喫茶店に入った記憶があったからだ。
確かに考えてみれば、このような山小屋風の喫茶店はさほど珍しくないような気がした。ただ、それはかなり昔のことであって、最近はカフェが多かったりするので、「アムール」や「アルプス」のような喫茶店は、ほとんど見ることができない。「アムール」にしても偶然見つけて、
「こんなところに喫茶店があるなんて、ねえ、寄ってみましょうよ」
と、ウキウキした様子で話す千鶴を見て、顔が緩んだ時のことを思い出していた。
今ここに千鶴がいたら、同じようなことを言うかも知れない。そう思うと、まず中に入ってみることは確定した気分になっていた。
「ガランガラン」
扉を開けると、鈍い鈴の音が聞こえた。なるほど、アルプスのヒツジが首からぶら下げている鈴の音とそっくりである。
店内に入ると、初老の男性がマスターをしていて、一人の女子大生であろうか、アルバイトの女の子がこちらを見て、ニッコリ笑い、
「いらっしゃいませ」
と元気印一番の掛け声で迎えてくれた。
店内には他に客はおらず、それでも、コーヒーの香ばしい香りが、店内に充満していた。木造の建物にコーヒーの香りが染みついているようで、雰囲気としての第一印象には、何ら問題はなかった。
女の子が水を持ってきてくれたが、彼女の顔を見ると、懐かしさを感じた。それは千鶴とは似ていない雰囲気だったが、久しぶりに千鶴以外の女の子にドキッとした瞬間でもあったのだ。
浩平は、今までに千鶴以外の女性と付き合ったことが何度かある。千鶴の方も、浩平以外の男性と付き合ったことがあるのだが、二人とも、長く続いたことはなかった。もちろんその間に、男女の関係になったことはあったのだが、男女の仲になってしまうと、すぐに冷めてしまったのは、千鶴の方だった。
浩平の方が、どちらかというと、情に流されやすいタイプで、一度身体を重ねてしまうと、
――違和感がある――
と、思いながらも、その気持ちを打ち消して、付き合っていこうと考えていたが、そんな感情は相手にすぐに分かってしまうものだった。隠し事は苦手な浩平なので、すぐに気持ちが顔や態度に出てしまう。それはいいことなのか悪いことなのか、浩平には分からないでいた。
そういう意味では、千鶴の方が、どちらかというと冷たい人間のようである。ただ、千鶴の方が、
――熱しやすく、冷めやすい性格――
のようで、千鶴も浩平も相手のことは分かっていたが、意外と自分のことには気付いていないのだった。
浩平の方から、
「付き合ってください」
と言って、告白した相手がいたが、あれは、大学三年生の頃だっただろうか。
名前を幸恵と言ったが、あっけなく
「ごめんなさい」
と言われたのを思い出した。
その時の幸恵に喫茶「アルプス」の女の子が似ていたのだ。
思わずドキッとしてしまったが、彼女には分からなかったのか、事務的に、
「何にいたしましょう?」
と、相変わらず笑顔を向けてくれていた。
「じゃあ、コーヒーで」
と注文し、メニューをたたむと、
「コーヒーを一つ」
と、マスターに向かって声を掛けた。
マスターは黙ってサイフォンの用意をしていたが、浩平は次第に彼女の顔を見ていると、大学時代の記憶がよみがえってきたかのように思えてきた。
喫茶「アルプス」に似た喫茶店が、大学の近くにあった。一時期、ランチを食べに毎日通った時期もあったが、それは大学に入学してすぐくらいのことで、半年もすれば、次第に行かなくなり、二年生になる頃には、誰かに誘われなければ、行かなくなった。
――こんな店は、大学のある近辺にしかないと思っていたが――
このあたりには大学はない。このあたりは完全な住宅街なので、主婦が昼下がりに来るか、営業社員が時間調整にマンガでも読みにくるかくらいしか想像できなかったが、浩平には、この店に常連がいるような気がしなかった。
常連というのは。
――いつも来ている客――
というだけでは常連とは呼ばないと思っている。
――いつも来ていて、常連客同士、情報交換や、店の人と会話があって、初めて常連というのだ――
と思っていたのだ。
店側からはどういう目で見ているのかは分からないが、客として来ている立場から見ると、常連という肩書を得るには、少し閾を高くしなければいけないと感じていた。
そういう意味では、、喫茶「アムール」とは、かなり違う様相を呈している。どちらかというと、この店は、
――初老の男性が趣味でやっている――
というイメージが強い。常連がつかないとすれば場所柄なのか、それともマスターの性格なのかであろうが、マスターはほとんど何も言わないような気がする。まだ初めてきただけでそこまで本当に分かったかどうか疑問だが、何度か通っていると、自分の最初の想像と、あまり変わっていないことに気付くのだ。
なぜ、浩平がこの店に時々通うことになったのかというと、やはり、幸恵に似ている女の子がいるからであろう。もちろん、このことは千鶴には内緒にしておかないといけないと思っていた。
とりあえず、その日は、待ち合わせまでの時間潰し、
――また来てみよう――
と思っただけで、店を後にしたのだった。
店を出ると、だいぶ表は暗くなりかかっていた。遠くに見える家の明かりが暖かく感じられ、今まで暖かい店内にいたはずなのに、何か違和感があるのを感じていた。そのことはあまり気にしないようにして、喫茶「アムール」を目指したのだった。
喫茶「アムール」への道
浩平は、すでに喫茶「アムール」には、千鶴が待っていることは分かっていた。千鶴を待たせるために、中途半端な時間を利用して、喫茶「アルプス」に立ち寄ったのだからである。
喫茶「アムール」では、千鶴が本を読んだりすることもなく、いつものように表を見ながら浩平が来るのを待っていた。すでに日は落ちていて、あまり視力のよくない千鶴には、浩平が現れたとしても、扉を開けて中に入ってくるまでは、見えないに違いなかった。
すべてが、千鶴にとっての、いつもの通りの時間経過であった。
表に白い影が見えても、それは浩平ではない。浩平はいつも千鶴の分からない時に入ってくるのだ。
「一度くらい、私に分かるように入ってきてよ」
と、微笑みながらいうと、
「そんなむちゃくちゃな」
と、やはり微笑みながら浩平が返事を返してくる。
こんな他愛もない会話が最初に少しあるのがいつものことだった。普段からあまり会話の少ない千鶴にとって、浩平は長く会話ができる唯一の相手だった。
幼馴染というと、どうしても、子供の頃の恥かしいところを知られてしまっていることが多いので、お互いにそのことに触れないようにしているが、浩平は結構面白がって、わざと触れてくることがある。千鶴も顔から火が出るほど恥かしいことでも、浩平に言われる分には、さほど気にはならない。逆にそれが二人の間での会話の「肴」になっているわけなので、千鶴にとって、大きな問題ではない。