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時間差の文明

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 浩平が分かっていることであれば、千鶴にも分かるのではないかと思っていた。浩平も同じことを感じているようで、
「俺は何か違和感があった時、千鶴が分かっていると思うと、俺にもすぐに気付くんじゃないかって思うんだ。だから、俺が違和感を感じて、それがどこから来るかすぐにピンとくるようなら、それは千鶴にも分かっていることだって思うようにしているんだ」
 と、言っていたことがあった。
 他の話のついでだったので、あまり深く話を聞いていなかったが、千鶴の意識と同じものなので、その都度思い出すことができる。それが、千鶴と浩平の関係の中でも大きな部分を占めているのではないかと、千鶴は感じていた。
 千鶴がその時に感じた違和感は、天井が割れて、一度ガラスのように粉々に飛び散った破片が。最後はテープの逆回しを見るかのように、元に戻ったことだった。
 特撮映画などではよく使われることなので、違和感を感じる人と感じない人、それぞれなのだろう。浩平が違和感がないとすれば、
――映画のスクリーンを見ているようだ――
 と思うからだ。
 千鶴も最初はそう思って見ていたが、どうにも釈然としない。確かにありえないことではあるが、それを言うなら、天井が割れて、そこに人の顔が映っているというのもおかしな話だ。
 おかしな話をまともに見ようとすると、神経もまともでは見れないだろう。
――これは夢なのだ――
 と割り切っているから見れるというもので、その中で特撮の映像で見たことを再度見たとしても、マヒした感覚の中では別に違和感を感じることもない。
 だとすると、違和感は目の前に見えていることを、そのまま解釈することで感じるものではない。
――では一体何なの?
 千鶴は考える。
 子供の頃にもあったような気がする。
 違和感は感じるが、それがどこから来るものなのか分からない。
――違和感って、元々目の前に展開される映像をまともに見て解釈するだけでは、決して感じるものではないのかも知れないわ――
 と感じるようになったのはいつからだったのだろう?
 子供の頃は、目の前に映ることは、ほとんどが初めて見るものだ。それが正しいのか、おかしなものなのか分からない。交通事故を目撃したりした時のように、考えるよりも先に強烈な印象を植え付けられた時などは、大きな違和感が生まれるかも知れない。
 しかも、違和感など、そうしょっちゅう感じるものではない。たまにしか感じないから違和感なのだ。
 だからこそ、強烈さは十分なのだ。
 小学生の低学年の頃の千鶴は、目の前に見えていることであっても、自分が納得できないことを承服できるほど素直な子ではなかった。
 それは自分が一番分かっている。
 学校で、
「一足す一は二です」
 と教えられる。算数の基礎中の基礎だ。そこからすべてのことが始まるのだから、ここを分かっていなければ、算数に入っていくことすらできない。しかし、千鶴は、
「どうしてそうなるんですか?」
 と、先生に詰め寄る。
 詰め寄られた先生も困惑する。
「そういう風になっているんだ」
 としか答えられないだろう。
 もっとも、これは先生だけではなく、
――そう思うことが理解することだ――
 と、誰もが無意識に感じていることだろう。だから、誰も疑問を感じることなく、入っていけるのだ。最初に疑問を感じるか感じないかということが、本当に重要なことなのであろう。
 違和感という言葉は、こういうことをいうのだ。
 最初に理解できるかできないかで、納得できないまま入り込んでいくと、違和感があっても、それを違和感として捉えられない人になってしまう。
 感覚がマヒしてしまっているのだろうが、マヒしてしまった感覚を、マヒしないようにすることができるのだろうか?
 もちろん、人それぞれなのだろうが、千鶴としては、ほとんど無理なのではないかと思っている。常に疑問ばかりを考えているのもどうかと思うが、
――疑問なくして、納得などありえない――
 感覚がマヒしている人に、納得という観念すらないかも知れない。言葉では分かっていて、
「自分はすべてを納得しているのよ」
 と、言ってみたところで、それはしょせん、絵に描いた餅のようなもので、説得力もあったものではない。
 千鶴は算数という学問に最初から挫折してしまった。納得できないものを理解しろというのは無理なことだった。
 それが小学校二年生の頃のことだったのだが、五年生になる頃には、算数が好きで好きでたまらなくなった。
 何かのきっかけがあり、
「一足す一が二」
 を納得したのだ。
 納得すれば、算数ほど楽しい学問はない。なぜなら、
――算数とは、答えさえ合っていれば、途中はどんな解き方をしてもいい。しかも、その解き方が学問としては重要なのだ――
 ということを理解したからである。
 答えも解き方も一つでは。これほど面白くない学問はない。
――納得できない――
 と言っても過言ではないが、千鶴は決まった答えをいかに導き出すかということに面白さを感じた。
――それこそが学問なのだ――
 という考えが、自分の中にある学問という概念をすべて納得させてくれたのだ。
 それから千鶴は勉強が好きになった。
「勉強は裏切らない。やればやるほど、点数に反映してくるから」
 と思った。
 だが、進学すればその考えが甘いことに気付かされた。
 自分一人で勉強している時はいいのだが、まわりと比較されるようになると、そうもいかない。
 特に進学校に入学すると、まわりのレベルは以前に比べて上がっている。それだけ試験も難しくなり、今まで勉強すればするほど点数に反映していたが、難しい問題では、どうしても点数が上がらない。
 それも分かっていたはずのことなのに、そこに身を置くと戸惑ってしまう。無理してでもレベルの高いところに入ったのが間違いだったのだが、それも人それぞれである。
 まわりを絶えず意識して、まわりと競うことを勉強のやりがいだと思っている人には、これほどの環境はないだろう。
「自分のレベルを確かめることができるというのは、私には天職のようなものだわ」
 と、平気で言っている人もいた。
――こんな人たちと私は鎬を削るなど、できっこないわ――
 と、千鶴は思っていた。
 それでも何とか頑張っていたが、成績は下がる一方、待っているのは挫折だけだった。
 どうすれば楽になることができるかを考えていくと、結局、何も考えないのが一番である。人は、
「逃げているだけだ」
 と言うかも知れないが、自分にはそれしかなかった。
 もちろん、まわりからは、
――逃げているだけの生徒――
 というレッテルを貼られることだろう。その頃に、千鶴の中から、違和感というものが消えていた。
 それは、小学生低学年の頃の、算数に納得できなかった自分とはまったく違う。大人になってからの感覚のマヒには、
――挫折――
 という言葉が重くのしかかってくるからだった。
 千鶴が天井の割れるのを感じた博物館を訪れたのは、自分に自信を持っていた時期だった。
 あの頃は考えれば考えるほど、納得することができ、勉強すればするほど、成績に現れていた。
――世の中、こんなに面白いことはない――
作品名:時間差の文明 作家名:森本晃次