時間差の文明
――決して交わることのない平行線が、奇跡的に交わったのかも知れないな――
とそんな気分にさせられたのだ。
そして、彼女と別れて、その日から一週間、彼女のことを意識していたが、それ以上は、まるで何もなかったかのように、記憶の奥に封印された。そして、夕凪の日に車に呼び止められるまで、思い出すことはなかった。
車に呼び止められてもピンと来ることはなかった。
彼女の顔を見て、
――まるで昨日のことのようだ――
と感じたのも事実だが、それも一瞬だった。昨日のことのように思ったのは、その日のことを思い出したからではなく、その日の後の一週間、彼女のことが頭から離れなかった時の記憶がよみがえったからだった。
――こんなおかしな記憶の仕方というのもあるんだな――
と浩平は感じていた。
記憶がよみがえった浩平は、またしても、顔が引きつっていた。最初に彼女の笑顔を見た時と同じであることを思い出した。
――ということは、今あの時に戻ることって可能なんじゃないかな?
と浩平は思った。
運転手のおじさんがいるが、二人だけの世界には変わりがない気がした。運転手のおじさんは彼女には従順で、気を遣ってか、何も話すことはなかった。
車がゆっくりと走り出して、どうやら彼女の家に連れて行かれるのが分かったが、浩平には不安はなかった。ただ、しいていえば、
――期待という言葉の不安がないとは言えない――
と自分に言い聞かせていたのは分かっていた。
浩平にとって、車に乗ること自体、珍しいことだった。家には車がないので、車に乗ることはそれだけで感激だったのだ。
静かに走り出した車は、浩平と彼女を載せて、スピードを上げた。それほどの時間が経ったのか、ハッキリとはしないが、彼女の雰囲気と、車の中の雰囲気、まるで盆と正月が一緒に来たような気がした。
車が彼女の家に到着した時、まだ夕日は暮れていなかった。
「どうぞ、こちらに」
車が屋敷の玄関前に到着し、扉を開けてくれた女性が手招きしてくれた。
――何という大きな屋敷。テレビでは見たことがあるけど、初めてこんな大きな屋敷に入った――
正面は和風の家になっているが、その横には西洋風の屋敷もあり、和風の家の瓦屋根にある瓦の数を思わず数えてみたくなるほどだった。
和風の廊下を通らないと、西洋風の屋敷にはいけないようで、
「私の部屋はあっちなんですよ」
と、西洋風の建物を指差した。
――何もかもが未知の世界――
彼女は、浩平を西洋館に招き入れると、広い食卓に案内してくれた。食卓は、三十人くらいは座れるくらいの席になっているが、そこに彼女と浩平だけの二人が腰かけているだけで、最初はスープから始まって、高級料理が次々に運ばれてくる。
――こんなにたくさん、食べられるわけはない――
と、思っていると、やはり彼女は一口、二口食べただけで、次が運ばれてくるのを待っている。
――お姫様のようだ――
と思って見ていると、彼女はニッコリと笑って、
「私には姉が一人いるんですけど、私が身体を悪くしたために、こちらで療養することになったんです。だから、いつも寂しく一人での食事なんですけど、今日、そのお姉さんがこっちに来てくれることになっていたんですけど、急に今日来れなくなったということで、また一人での寂しい食事になるかと思っていたところに、あなたをお見かけしたので、失礼かと思いましたが、お食事に御招待申し上げたという次第なんですよ」
すべてに浮世離れした感覚のある彼女だったが、寂しいという言葉は分かるような気がした。
「こんな僕でよかったら、いつでも呼んでください」
と、今まで知らなかった世界を、夢を見ているかのようではあるが体験できることは、素直に嬉しかった。特に寂しいという彼女の気持ちは、無駄に広すぎる部屋に、一人取り残されたことを想像すると、分かる気がしてきた。
浩平は、以前同じような気持ちになったことがあった。
あれは、家族で海水浴に行った時のことだった。まだ小学校の低学年の頃、民宿に泊まって、二日ほどゆっくりしようというのが、親の考えだったようだ。
子供の浩平は、別に海水浴が好きだというわけでもない。却って、暑い中、
――何が嬉しくて、日が照っている中で海に入らないといけないんだ――
日に焼けると、風呂に入る時も、ひりひりして痛いし、母親は日光浴でもしていればいいのだろうが、子供が誰でも海水浴に行ければ嬉しいなどと、勝手な解釈をされても困ると思っていた。
父親は、気ままに釣りに出かけて、大人にとって自由な二日間は嬉しいのだろうが、子供にとっては、こんな田舎に連れて来られて遊ぶところもない。テレビもそんなにチャンネルが映るわけでもない。何よりもその気持ちを抑えて、黙っていないといけないのは耐えられなかった。
親が一緒にいても寂しい。親が一緒にいるからこそ寂しいという気持ちになった。その頃は、いつも千鶴と一緒に始めた頃だったように思う。
千鶴と一緒にいないのが寂しいということに、まだ気付かなかった子供の頃である。
その日の夜、どこかの西洋のお城の中に浩平はいた。それは、中世のお城ではなく、テレビアニメで見た、どこかの星の宮殿だったのかも知れない。だが、そこに一人鎮座していて寂しそうな顔で食事をしているのが千鶴だと分かった。その時の千鶴は普段の千鶴とは違い、大人の雰囲気を醸し出していた。きっと、寂しそうな顔が大人のイメージに見えたのだろうが、浩平が、
――俺は、千鶴から離れることはない――
と最初に思った時があったとすれば、それは夢の中だったのかも知れないと感じるほどだ。
千鶴が大人しい性格で、誰ともあまり話をしなくなったのは、この頃だった。それより前は普通に友達と話しをしていたのに、この夢を見てから千鶴の様子が変わって行った。その頃から浩平は、
――俺が千鶴の夢を見ると、夢に見たような性格に千鶴は変わっていくんだ――
と、思い込んだ時期があった。
本当の性格は違っているのに、浩平が勝手な想像をしてしまうことで、千鶴の性格を勝手に決めつけてしまったという思いが強く、それが千鶴への後ろめたさにも繋がっていた。千鶴に対してそばにいることは、自分の義務のように感じるようになったのは、その時からだっただろう。
どうして、千鶴がお姫様のような格好をしていたのか分からない。大人しそうな雰囲気が、お姫様を想像させたのだろうと思っていたが、本当にそれだけなのだろうか……。
浩平は、大人になるにつれ、子供の時の記憶が封印されていくのを意識していた。この記憶も結構早くに封印されていた。小学校低学年の頃の記憶なので、当然なのだが、逆に考えてみて、封印が早かったから、子供の頃の記憶だったのだと、自分に言い聞かせていたのかも知れない。
記憶の封印の順番というのは、本当に時系列に従っているものなのだろうか? 浩平は不思議に思っていた。
彼女のお姉さんが来れないと聞いた時、彼女が可哀そうだと思ったのも、当然なのだが、それ以上に、
――お姉さんに会ってみたい――
と思ったのも、正直な気持ちだった。