時間差の文明
ただ、億劫な気持ちに変わりはなく、まわりの様子を気にしている余裕がないほど、身体にだるさを感じていた。
――腹が減っているのに、それ以上に気持ち悪さが気になる――
少し熱っぽさはあったが、病気というわけではなさそうだった。これくらいなら、熱が急に上がったりすることはないだろう。
それまでの経験から、自分の体調も分かるようになってきていたので、さほど心配はしなかったが、せっかくこれから食事をしようと思っているのに、食べてもおいしくなかったら、面白くないと思っていた。
商店街へ抜ける道は、途中で曲がることになる。曲がってしまえば、それこそ交通量は少なくなる。商店街へ抜ける道でも、こちらは完全に歩行者のためと言えるほどの裏道だった。車の数が疎らしか目立たなくなり、歩くにはそれほどきついわけではない。
――この間に少し楽になればいいが――
やはり、車の排気ガスがなければ、かなり違う。さっきまで、それほど掻いていなかった汗が、道を曲がると、背中に吹き出してくるようになった。毒素が出てきているようで、汗を掻いているというのも、気持ちのいいものである。
発熱した時、熱が上がりきるまでは、なかなか汗を掻かない。身体に熱が籠ってしまって、意識が朦朧としている時間である。
しかし、上がりきってしまい、後は下がる一方になってくると、今度は一気に汗が吹き出してくる。そんな時、意識が戻ってきて、
――ああ、これでスッキリできる――
と思い、下着を頻繁に変えることと、汗を拭うことさえ欠かさなければ、後は快方に向かうだけであった。
道を曲がって背中に掻いている汗を感じてくると、快方に向かっている時のことを思い出すのだった。
「君、ちょっといいかい?」
後ろから白い大きな高級車が徐行しながら近づいてきているのを、その時初めて気が付いた。
「僕ですか?」
他に誰がいるというのだろうか? まわりを見渡しても、歩いている人は自分しかいない。
「ああ、君のことだよ」
と言って、運転手と思しきその人は、口調は普通だったが、姿勢は低姿勢に感じられ、一体どこの誰なのか、車の後部座席に白いものが見えていた。
運転手は、浩平を制するようにしながら、後部座席に座っている人に、何か話しかけているようだった。すぐに浩平のところまでやってくると、浩平に車に近づくように話し、後部座席の窓ガラスがゆっくりと、静かに開くのが分かった。
「あなたは?」
見覚えのある顔だったが、一瞬、その人とどこで会ったのか、分からなかった。その人は女性で、白く見えたのは、白いワンピースに白い帽子を手に持っていたからだった。何もかも白い色に包まれた彼女の肌は、服や帽子の眩しさに負けないほど白く、そして、どこか透明感を感じさせた。それはきっと、
――白い色が光を反射させるからだ――
と思っているからに違いない。
確か、彼女と出会ったのは、その日から一月ほど前のことだったのではなかったか?
いや、その記憶も曖昧だった。一月と思って、その時を思い出そうとした時、まるで昨日のことのように思い出せたからだった。
なぜ昨日のことのように思ったのかというと、心当たりがあった。
その日も同じように昼の暑さが収まらない中での夕凪の時間、同じように歩いていたことが最初に記憶からよみがえってきた光景だった。
ただ、それが彼女との記憶の一番最初というわけではなかった。途中だったように思うが、その途中でなぜ、自分が一人になったのか、思い出せなかった。
少しずつ、記憶が明らかになる中で、記憶が一か月どころではなく、何年も前ではなかったかと思った。その時浩平は中学一年生、記憶の中にある自分は、まだ小学生だったのだ。少なくとも、一年は経っていることになる。
こうなったら、記憶が一年前でも二年前でも、たいして変わりはないように思えた。要するに、
――自分が小学生だった頃の記憶――
ということさえ思い出せればそれでよかったような気がしたからだ。
あの日は、学校の帰りだった。放課後、少し先生に呼び出されて、簡単な面談をしていた。怒られていたわけではなく、どんな話をしたのかは、今からは記憶を引き出すこともできそうもなかった。
別に思い出すほどのことではない。それよりも、教室に入ってくる西日がやけに気になったことが記憶に深かった。
話が終わり、校舎を出ると、さっきまであれだけ眩しかった西日がすでに建物の影に隠れていて、日が暮れる寸前だったのに気が付いた。
だが、その割りには、歩いていて、なかなか暗くなってこないのは不思議だった。その頃には夕凪という言葉は知っていて、風がないのも意識していた。
風がない時間、身体に熱が籠ってくるのを感じていたが、そのせいで喉がやたらと乾いていた。
近くに公園があり、水飲み場があったので、そこまで行って水を飲むと、それまで歩いていて、意識が曖昧だったことに気が付いた。
――公園の水飲み場の水くらいで、ここまで頭がスッキリするなんて――
と思って、フッと一呼吸すると、急に身体にだるさを感じた。ベンチに座りたいと思ったのだ。
後ろを振り向くと、さっきまで誰もいなかったはずの公園に、一人の女の子がベンチに座っているのが見えた。
彼女はピンクのワンピースに白い帽子を手にしていた。そして、浩平の方を見て微笑んでいるではないか。
浩平も彼女から視線を離せなくなり、ニッコリと笑ったが、なぜかその笑顔が引きつっているのを感じた。
――おかしいな――
そこに恐怖があるわけでも、不安があるわけでもない。確かに可愛い女の子ではあるが、千鶴を思い出してしまうと、可愛いという言葉が何かウソっぽい感じを受けたのを感じていた。
――やっぱり千鶴を思い出すんだ――
と思うと、思わず苦笑いをしているのを感じた。
今度の苦笑いは、心からの苦笑いで、決して引きつっているわけではない。
「こんにちは、ごきげんよう」
彼女は、そういって挨拶してくれた。
「ごきげんようって、今会ったばかりなのに?」
と思わず口にすると、彼女はキョトンとして、不思議そうな顔をしたが、それは一瞬だった。彼女からすれば、
「ごきげんよう」
という言葉は、出会った時の挨拶なのだろう。そう思うと、彼女がいわゆる上流階級の女の子のように思えてならなかった。
――今の時代に、そんなのってないよな――
と思いながら、それでも目の前にいるのだから、浩平は興味をそそられても無理のないことだと思った。
自然に、彼女の隣に腰かけた。何を話していいのか分からない中で、何となく会話が続いていた。どうやら彼女は、学校に行っている雰囲気はない。何か病でも患っていて、この近くにある別荘地で、療養中だというのだった。
お姉さんのように見えていたが、どうやら、年下だということを聞いてビックリした。そして同時に嬉しい気分になった。
――今の間だけとは言え、妹ができたんだ――
本当なら、連絡先を聞いて、また会ってみたいという気がしたのだが、止めておいた。どうにも自分と彼女では住む世界が違っているようだ。
それは話しながら気が付いたことで、今だけなら、対等にいられる時間だと思った。