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時間差の文明

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 いくら興味を持ってやってみようと思ってみても、持って生まれたものがなければ、努力だけで何とかなるレベルというのはたかが知れているように思えた。それでも、たかが知れているという中で自分を試してみるのも悪いことではない。どうやら、浩平もそこから入ったのではないだろうか? 最初から自分に絵のセンスがあるなど、浩平も想像しているわけではなかったからである。
 千鶴も読書以外に他にも趣味を持ってみたいと思っていたが、いろいろ考えたが自分にできそうなものはない。読書のように受け身ではなく、自分から何かを生み出す趣味に憧れを持つ千鶴だった。

                  妹……

 喫茶「アムール」で、千鶴から、
「友達の妹に会ってほしい」
 と言われた浩平は、しばし考えて、その申し出を断った。
 浩平は、相手の女の子が可愛い子だとすれば、千鶴との間で自分が天秤に掛けてしまうのではないかと思うと、それが怖かったのである。今までの浩平であれば、もっと気軽に会ってみてもいいと思ったかも知れないが、それだけ千鶴に対して気を遣っていたのだろう。
 それよりも気になったのは、千鶴が本当にこんなことを言い出すなど信じられないという思いがあったからだ。大人しくて、あまり人の言うことには逆らわない千鶴だが、それは逆らえないのではなく、逆らわないのだ。下手に逆らって波風を立てることと、逆らわずに、相手の話を聞いたことで自分が被る被害とを冷静に考え合わせて、どちらが被害が少ないかを考えている。
――本当に目の前にいるのは、俺の知っている千鶴なのだろうか?
 と、疑いの目を向けてみた。疑いの目に対して、千鶴は何ら怪訝な顔を示さない。確かに千鶴は大人しく従順なところが目立つが、結構嫌いなことは、嫌がる方だった。特に相手が浩平であれば、嫌なことはハッキリ嫌だと、態度に示していた。
 積極的な態度を見せる千鶴を見るのは久しぶりだった。
 他の人には決して見せない千鶴の積極的な態度は、自分の中に押し込めていた感情を、浩平だから表に出すのだという構図を、浩平は喜んで受け入れている。甘えてくれるのが嬉しいのは、きっと妹が欲しかったからなのかも知れない。
 浩平が小さい頃、妹が病気で死んだ。まだ浩平が幼稚園に上がる前だったので、人の死というものがどのようなものなのかなど分かるはずもなかったが、
―今まで目の前にいた人が急にいなくなって、二度と会うことができなくなった――
 ということだけは分かった。
 なぜなのか自分でも分からないのに、涙がこぼれてくる。その時がひょっとすると、感情から流した、生まれて初めての涙だったのかも知れない。
 浩平が友達の妹に会ってほしいという千鶴の申し出を断ったのも、今まで千鶴を妹の代わりに思っていたのに、もう一人妹の代わりになりそうな女の子が現れると、自分の中での妹に対してのイメージが破壊され、今後千鶴とどのように接していいのか分からなくなるからだった。
 とにかく今日の千鶴は饒舌だった。ただ、普段饒舌な時の千鶴と、いかに違うかということを、浩平には分かっていた。
 もし、浩平でなければ、この違いは分からないだろう。
 千鶴が浩平の前で饒舌になるのは、他の人の前に出た時、大人しい性格を表に出すために、溜まってしまったストレスの発散が主であった。
 千鶴も相手が浩平であればこそ、言いたいことが言えるのだ。
 ということは、千鶴は浩平に対して、「自分のことを訴えている」のだ。
――普段から表に出すことのない自分を解放してやりたい――
 という気持ちが、浩平には手に取るように分かる。だからこそ、今回のように、
――人のために――
 千鶴が、浩平に何かを訴えるということは、あまり考えられないと思っていた。千鶴本人には、そこまでの気持ちが分かっていないのかも知れない。日ごろから他の人と話すくせがついていれば、人のことを頼んでいる自分が、まるで余裕を持っている人間のように思えて、満足感に浸れるのだが、日ごろ大人しい人間には、人のことを頼んだとしても、それが自分のストレス解消にならないのだから、却って不満が残ってしまう。
――そんな中途半端なことを、千鶴がするはずがない――
 と、浩平は思ったのだ。
 しかも、浩平がもし乗り気になったとすれば、どうするつもりだったのだろう?
 そのまま相手のことを好きになってしまったら、千鶴は完全にピエロになってしまう。――自分の顔を化粧で隠すピエロのような千鶴は、心の中で、道化を演じているのではないだろうか――
 浩平も千鶴ほどではないが、あまり人と話をするのは好きではなかった。話題の中心になったりすることも多く、一見、人から人気があるように見えるが、浩平自身、
――俺こそが道化師のようなものだ――
 と思っている。
 人からおだてられると嫌とは言えない性格である浩平は、時々人から利用されていることに気付いていた。それでも、自分ではストレスが溜まっているような気がしないので、それも仕方がないと思っていたのだ。
 浩平は、今までに千鶴以外の女の子を妹として見たことがあったように思うのだが、それがいつのことだったのか思い出せない。まだ小さい頃のことだったような気がする。
 ちょうど、千鶴の家に遊びに行った帰りだっただろうか。
「夕方近くになったのに、まだ暑いな」
 と思っていた時期だったので、残暑の残る九月か十月上旬くらいだったかも知れない。身体にだるさを感じ、アスファルトから容赦なく照り返してくる暑さにウンザリしていたのを覚えている。
「風がないな」
 と感じたことを思うと、夕凪の時間だったのだろうか。
 その日は、そんなに急いで家に帰る必要はなかった。母親も外出していて、父親は仕事で出張だったのだ。母親から、
「夕食は表で食べなさい」
 と、言われてお金ももらっていた。
 その日、家に帰っても誰もいないことを千鶴に告げれば、
「ごはん食べて行ってよ」
 と、言ってくれただろう。
 しかし、その日、浩平は千鶴にそのことを告げなかった。わざと告げなかったわけではなく、本当は最初に言えばよかったのだろうが、最初に言いそびれてしまったために、
――もういいや――
 と思うようになり、
――商店街の中にある喫茶店や食堂に行くのもいいかも知れないな――
 母親が外出して、帰っても誰もいないことは、たまに感じた。この間は一膳飯屋のようなところに寄ったので、今日は喫茶店でもいいと最初から思っていたのも事実だった。
――ひょっとして、喫茶店に行ってみたかったので、千鶴には何も言わなかったのかも知れないな――
 と思ったほどだった。
 千鶴の家から、商店街までは、徒歩で注五分程度である。普段なら、それほど億劫に感じないが、その日はなぜか足が重たかった。
 重い足を引きづりながら、道を歩いていると、普段に比べて車が少ないような気がした。その日は平日だったので、夕凪の時間というと、夕方の交通量の多い時間である。
 ちょうど裏道になるようで、普段から車の量は多かった。
――最初から多いと思っていたので、思ったよりも少ないと、余計に少なさが目立って感じるのかも知れないな――
 と思った。
作品名:時間差の文明 作家名:森本晃次