時間差の文明
と言われるほど、夜長を読書で楽しむということであろうが、千鶴は中学の頃、寝る前に読書をしていたことがあった。読んでいたのは、ミステリーが多かったが、それ以外の小説を読む気にはなれなかった。表面に現れるインパクトの強さを求めたのだ。普段から大人しい性格である千鶴は、小説くらいインパクトの強いものを読もうと思っていたのだ。
最初は恋愛小説を読もうと思ったのだが、本屋で見た文庫本の恋愛小説は、憧れを感じるようなものではなく、大人のドロドロした男女の感情が入り乱れたものが多かった。そんな小説を、ほとんど恋愛経験のない自分が読んでも、ピンと来るはずもなく、これから経験するであろう恋愛に対して、間違った偏見の目を持ってしまうことを嫌ったのだ。
ミステリーもところどころに男女の関係が描かれているが、それが中心ではない。あくまでも導入部分だと思って読めば、さほどドロドロした気分になることはない。トリック重視で読める作家の作品を選りすぐればいいからであった。
そんな千鶴が文明の本を読むようになったのは、夢を見てから、それが気になって本を探したことが原因だった友達が、学校の図書館で文明の本を見ていたのを、後ろから話しかけたことが最初だった。その友達は喫茶「アルプス」に最初に連れてきてくれた友達で、妹がここでアルバイトをしていると言って紹介してくれた。「カリオス文明」を気にしている千鶴を見て、気になって話しかけてきた彼女、やはり友達の妹なのかも知れない。
そう思って彼女を見ていると、やはり初対面ではないのかも知れないという思いが強くなってきた。ただ、まだその話をするには、もう少し確証がほしかった。
秋の夜長に布団の中で本を読んでいると、眠気が差してくる。千鶴は、その頃から眠気覚ましにコーヒーを愛飲するようになったのだが、最初はおいしさなど、まったく分からなかった。
確かに香りは香ばしくて嫌いではない。それなのに、飲んでみると、こんなに苦いものなのかと思うほど、舌の感覚がマヒしてしまうのではないかと思うほどだった。
中学時代というと、クラスメイトの中で、コーヒーを飲めるという人は、半分もいないのではないかと思う。もし、アンケートでも取れば、飲めるという人は七割くらいになるかも知れないと思ったが、中には飲めることにしたいと思っている人もいるだろう。そう思うと、千鶴ももしアンケートに答えるとすれば、飲めなかったとしても、飲める方に丸をつけるかも知れないと感じた。
コーヒーの方が、お酒やたばこよりも大人への入り口にふさわしいと思うのは、お酒やたばこが法律でハッキリと飲める年齢が決まっているからだ。コーヒーに関しては決まりがない。
――どこが違うのだろう?
と思ったが、他の人に言わせれば、
「そんなの当たり前だろう」
と答えるだろう。
しかし、さらにどうしてなのかを質問すると、誰も納得の行く答えを返してくれる人はいないに違いない。
そんな時、千鶴は、
――してやったり――
という気分になるに違いない。
コーヒーの香ばしさを大人だけのものだとは誰も思わないだろうが、コーヒーが「大人の飲み物」だという考えの人はたくさんいる。少しニュアンスを変えただけで、矛盾した答えになってしまうが、それだけに、コーヒーという飲み物が神秘的なものなのだと、千鶴は考えたのだ。
本を読む時は、コーヒーが欠かせなくなってしまった。
それでも、夜布団に入ってから、コーヒーを飲むと、今度は眠れなくなってしまう。今まで寝る前に読んでいた本を、朝起きてから読むようにした。寝る前にも読むことはあるが、それは眠れない時の睡眠薬変りの様相を呈してきた。
――早く寝て早く起きる――
そうすれば、ゆっくり朝の時間を使うことができ、朝食も摂れるようになった。前は朝食を摂ることはしなかったのだが、それは起きてからすぐでは、胃がもたれてしまって、気持ち悪くて食事など摂れなかったからだ。
ゆっくりと目を覚まし、顔を洗ってスッキリすると、すぐに腹が減ってきて、朝食を食べることができるようになった。
メニューとすれば、コーヒーにトースト、ハムエッグに、レタス中心のサラダであった。コーヒーとトースト、さらにエッグの香ばしい香りが入り混じって、
――朝ってこんなに暖かなものなんだ――
と感じるようになった。爽やかさよりも暖かさを求めるのは、千鶴の性格なのかも知れない。
千鶴は普段から、自分がまわりから、
――大人しくて、暗い女だ――
と思われていることを自覚していた。
大人しいのは分かるけど、暗いというのは、どうかと思っていた。確かに明るいわけではないが、明るくなければ暗いのだという理屈は、納得がいかなかった。ただ、本当にそう思われているかどうか分からない。思われているとすれば、心外だと思っていた。
そういう意味で、爽やかさよりも、暖かさに敏感な千鶴は、自分の性格だと思いながらも、自分が暗いと思われていることに対しての感情だと、直接的な結びつきだとは考えていなかった。
コーヒーを飲むようになったことと、読書をするようになったことで、間接的に暖かさを求めている自分を感じるようになったのは、悪いことではないと思っている。
それからの千鶴は、喫茶店が好きになった。
高校時代も、あまり学校から、喫茶店に行くことは感心できないと言われていたが、平気で立ち寄っていた。さすがに校則違反ではなかったので、問題はなかったが、先生からは、あまりよくは思われていなかっただろう。
高校時代は、少し転落人生を味わったが、すぐに持ち直したことで事なきを得たが、その時にやはり一緒にいてくれた浩平と、喫茶店でのひと時の暖かさを千鶴は大切にしたかった。
浩平は千鶴が喫茶店に通っているのを知っていたが、浩平も一緒に行こうとは思わなかった。
――千鶴を一人にしてあげよう――
という気持ちがあったのも事実だし、喫茶店にいて、何を話せばいいのか分からないだけに、一緒に行くことに抵抗を感じていたのだ。
高校時代というと、中学時代まで浩平よりも千鶴の方が成績もよく、見た目の大人っぽさがまるで浩平の姉であるか、あるいは、保護者とでも言えるくらいに雰囲気だったが、高校になると逆転していた。
背伸びして入った高校の勉強についていけず、
――いかにして、自分の精神状態を平静に保てばいいのか――
ということばかりを考えていた。
それまでに感じたことのない初めての挫折、浩平もどうしていいのか分からない様子だったが、
――そばにいるだけだ――
という結論しか出てくるわけもなく、それが功を奏したのは、千鶴の理性と、浩平の暖かさが、それ以上千鶴を迷わせることがなかったことだった。
千鶴も浩平も、それぞれ読書を趣味にしていた。それがお互いのプライベートな時間の持ち方で、知らず知らずに同じ趣味を持っていたというのは、面白いものだ。ただ、浩平が絵画にも興味があるのを知ってはいるが、千鶴には絵画のセンスはないように思われた。遠近感やバランス感覚が自分にはないことは分かっていたからだ。
「やっぱり芸術って、センスが一番大切なのかも知れないわね」