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時間差の文明

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 それでも、何か気持ち悪さを感じ、それがまるで鉄分を含んでいるかのように思えたことで、少し吐き気を覚えた。目が痛い感覚があり、それが充血から来るものではないかと思うと、トイレに駆け込みたい衝動に駆られた。
 すぐに立ち上がり、カウンターの奥にあるトイレを目指して入ってみると、トイレがいつもよりも大きく感じられた。
――今日はどうしてこんなにいつもと雰囲気が違うんだ?
 と疑問に思った。しかも違うという点での共通性もない。大きく見えたのはトイレだけで、店内の雰囲気は、却って小さく感じられたほどだ。違う雰囲気を感じるなら感じるで、共通性がないというのは、今までにはなかったことだった。ただ、それがいつと比べてのことなのだろうかと思うと、それもハッキリとしていなかったのだ。
 トイレに入ると、すぐに見たのは鏡だった。
 そこに写った自分の表情は、青ざめていた。確かに自分の顔が普通ではないとは思っていたが、ここまで青ざめているなど、想像もしていなかった。顔半分に影が掛かったみたいになっていて、ちょうど、片方の目が鏡を写して確認することができないでいたのだ。
 蛇口を捻ると勢いよく水が出てきた。手で掬って顔を洗うと、一気に目が覚めた気がした。今度は自分の顔がハッキリと見えた。さっきまで青ざめて見えた顔だったが、頬の部分がほんのりと赤くなっているのを確認できた。
 水が冷たかったのもその理由だ。いつものくせで、最初の水は手で掬うことをせず、しばらく出した後で手で掬うと、本当に冷たい水が流れている。特にこの時期は、暖かい時期がある中で、冷たい時期もあるという不安定な時期なので、冷たさは余計に身に沁みるというものだ。
 目が覚めたという感覚も、店内の暖房が異様に利いていたのも原因かも知れない。というよりも、最近暖房には敏感になっていた。普段でも、暖房の利いていない部屋にいても、たまに汗を掻いてしまっていることがあることに気付いていたが、そんな時は、決まってあっという間に時間が過ぎていることは分かっていた。
 汗を掻くということは、精神的な発汗であれば、そこには何かの焦りが感じられるものである。焦りが感じられると、時間があっという間に過ぎたような感覚に陥るのも当然で、この感覚は間違っていないだろう。
 しかし、何にそんなに焦っているのか、正直自分でも分かっていない。千鶴に関係なく、浩平の中で、何か心境の変化があったというのだろうか? 焦りだけでなく、何か不安に感じることもあるような気がする。特に今まで気持ちに余裕を持って生きてきたと思っていただけに、その戸惑いは、他の人の比ではないかも知れない。
 今まで、千鶴と一緒にいることは当然のように思っていた。幼馴染であり、千鶴のことが誰よりも好きだとか、結婚したいなどと、変化を感じたことがなかった。
――そばにいることだけがすべて――
 それ以上でもなく、それ以下でもない。そばにいるという感覚だけで、心に余裕が持てたのだ。
 しかし最近、他の女の子の視線を感じるようになった。その視線が浩平に少し心境の変化を与えていることは分かっていた。ただ、それでも、そばにいる千鶴に対しての気持ちに変化があるはずもなく、そばにいてくれることが余裕に繋がっているはずだった。
 女性の視線が、浩平のことを気にしている視線で、恋愛感情に結びついているのかどうか、浩平もハッキリとは分からない。もし恋愛感情であるとすれば嬉しいことであり、少し舞い上がった気分にもなるというものだ。
 浩平が今まで、恋愛感情を抱いたことがなかったわけではない。学生時代にも好きな女の子ができて、付き合いたいと思ったことがあったが、結局成就しなかった。
 相手から好かれたことはなく、いつも自分が好きになっては、片想いで付き合うことはなかった。
――付き合わなくてよかったのかな?
 フラれた時はショックでも、後になってすぐに思い返す。それは相手が自分とは合わないと冷静になれば思うからで、
――では相手が誰ならいいのだろう?
 と思った時、
――恋愛感情がなくても、千鶴がそばにいてくれるだけで、それだけで俺にはいいんだ――
 と感じていた。
 その時、心に余裕が戻ってきて、千鶴と一緒にいることで、恋愛など、まだまだ先のことだと思えるようになる。それが、今までの浩平が恋愛感情を持った時の一部始終だったのだ。
 大学を卒業してからは、そんな感情に至ったことはない。仕事が忙しく、覚えることが多いというのと、まわりには自分に合うような人がいないように思うのも大きな理由の一つだった。社会人になると、まわりが見えてくるような気がしてきて、自分に合う相手なのかどうか、分かるようになってきた。
 そして、最近になって気付いたことだが、恋愛感情を抱いた人に対して「片想い」だと思っていたが、違っていたのかも知れない。
 それは、絶えず浩平のそばには、千鶴の存在があったからだ。
 浩平は意識していなくても、相手の女性から見れば。浩平の後ろに他の女性がいれば、それ以上、気持ちに進展はないだろう。
 中には浩平に恋心を抱いていた人もいるかも知れないが、千鶴の影が見えたことで、浩平に、それ以上の感情を抱かなくなったのも当然ではないだろうか。
 浩平としては、千鶴がそばにいることに満足してしまって、他の女性とうまく行かないとしても、それなりに自分に対しての「言い訳」がつくことで、失恋という意識が他の人が感じることと違っていた。もちろん、浩平はそのことを自分で意識することはなかっただろう。
 千鶴が浩平の恋愛の邪魔をしている格好になっているが、
――失恋の痛手は長く続いても、次第に落ち着いてくるものだけど、千鶴がそばにいないとなると、そのショックがいつまで続くか想像ができない――
 と感じたこともあった。
――そうであれば、お互いに結婚を意識するようになったら、どうなるというのだろう?
 浩平は、最近それを考える。
 千鶴がどう考えているかは分からないが、時々、果てしない不安がよぎってくるのは、そのことを考えているからだ。
 浩平は、千鶴との待ち合わせを楽しみにしながら、千鶴に変化がないかを観察するようにしている。少しでも今までと違ったところがあると、そこから不安が生まれ、不安は次第に大きくなり、底が見えなくなるのではないかと思うのだった。
 トイレから戻ってきた浩平が、いつもの指定席に腰かけた時、人を待つという気持ちが分かってきたような気がした。
――いつもここで千鶴が俺を待っていてくれるんだ――
 と思ったからで、窓ガラスの外はすっかり真っ暗な世界になっていることで、吸い込まれそうな気分は、不安を募らせるに十分な気がした。
――こんな不安に陥りそうな雰囲気で、よく待っていられるな――
 と感じたが、それは千鶴が必ず浩平という現れるはずの人を待っているという安心感があることで、大丈夫なのだろうと思った。
 半分は当たっている。確かに浩平が今まで約束の時間に遅れることはなかったし、待っている時間というのも、ほぼ決まっていたから、気持ちにも余裕があったはずだ。
 しかし、半分は浩平に想像もつかなかった。
作品名:時間差の文明 作家名:森本晃次