時間差の文明
埃のことは意識していたが、気だるさに繋がらなかったのは、あまり風邪を引いたことがなかったからだった。埃を吸えば体調が悪くなるなど当然のこと、それでも子供の頃は、そういう意識もなく遊んでいたものだった。
一瞬、身震いをしたが、風を感じたからだった。
――これで今日の夕凪の時間は終わりだな――
と感じた。思っていた通りの、あっという間の時間だった。
浩平は店の中に入ると、まずいつもの席に腰を掛けた。
「いらっしゃいませ」
と言って、お冷を持ってきてくれたのも、昨日の女の子だった。昨日はあまり意識していなかったが、その子は最近入ったのだろう。面識はあったが、あまり面と向かって話をしたことがなかった。
――俺を常連として意識してくれているのかな?
と思ったほどだ。
「コーヒーを」
いきなり聞くのはまずいと思い、コーヒーを持ってきてくれた時に聞くようにした。
彼女の後ろ姿を目で追っていたが、彼女の姿が、カウンターに入ってからは、一応マガジンラックからは雑誌を持ってきてはいたが、何気に表を見渡した。
――あれ?
この光景は昨日見たモノと同じものだ。いや、それよりも何よりも、さっきまでは、まだ夕日が建物に隠れてすらいなかったではないか。それなのに、すっかり表は真っ暗になっている。夕凪の時間が終わってから、日が暮れるまでには、まだまだ時間があるはずだった。建物の影に日が隠れたとしても、明るさの欠片くらいは残っているはずなのに、これはどうしたことなのか?
我が目を疑うとは、まさしくこのことだった。
そういえば、以前にも似たような経験をしたことがあったが、あの時は、ちょうど自分が建物に入る時につまずいて、意識を失ったことがあった時だった。自分では、あっという間のことだったような気がしていたのに、人に聞くと、一時間くらい気絶していたと言われた。その時に感じた、
――あっという間――
というのは五分ほどだった。一時間なら、夕凪から日が沈んでいてもおかしくはないだろう。
しかし、今日は気を失っているわけでも、途中で意識が飛んでいるわけでも何でもない。
「俺、店に入ってすぐに、この席に着いたよね?」
などと聞くのもおかしな話だ。それにこれから違うことを聞こうと思っている相手に、この質問はあまりにも突飛であった。
とりあえず、確認してみたいのは、千鶴のことだった。
昨日の千鶴の行動を逐一見ていたわけでもないだろうし、プライバシーをそこまで聞くのもおかしい。
――待ち合わせをしていて、すれ違った理由を調べたい――
という気持ちのそれ以上でもそれ以下でもないのだ。
十分ほどして、彼女が出来上がったコーヒーを持ってきた。この店はサイフォンから作るので、少し時間が掛かる。だが、それだけにおいしい。店に漂っているコーヒーの香ばしい香りに引き寄せられるように通ってくる客も少なくはないはずだ。
「お待たせいたしました」
そう言って、トレイにコーヒーと砂糖を持ってきてくれた。さすがにマスターから聞いているのか、浩平がミルクを入れないのを知っているようで、最初から持ってこない。そこまで分かってくれていると、話しもしやすいというものだ。
「あの、昨日、俺が来たのは覚えています?」
どう切り出していいのか分からず、まず自分を意識しているかどうかを聞いてみた。
彼女は、少し戸惑いを見せたがすぐに毅然とした態度で、
「ええ、覚えていますよ。昨日、そこの席にお着きでしたよね」
「はい、実は人と待ち合わせをしていて、どうやらすれ違ったみたいだったんですよ」
「それで、少しイライラされていたんですね?」
「ええ、そうなんです」
彼女は、本当であれば、あまり客の様子をジロジロ観察してはいけないというスタッフと客の暗黙の了解を分かっているのかと思うような答えだが、今の浩平にはその方がありがたかった。
「そうなんですね。確かにお客様のお入りになる前に、その席には一人の女性の方が座っておられましたよ。でも、お客様が来られる十五分くらい前にお帰りになられました」
「十五分も前に?」
少し意外な感じがして、彼女を見上げた。
「その通りです」
と言わんばかりの毅然とした態度は、それ以上何も言えないと思われたが、一つ気になったことを聞いてみた。
「よく十五分って分かりましたね?」
「ええ、ここは、ちょうど六時になると、ハト時計が知らせるんです。女性の方が帰られたのが、ちょうど、その六時だったと思うんですよ。それからちょうどオーブンで調理をするのに、十五分のタイマーを付けていて、それが切れた時、ちょうどお客さんが来られたからですね」
浩平は、十五分前に来たつもりだったのに、十五分遅れてしまっていたということなのか? それではまるで鏡に映った時計のようではないか。まるで夢のような感覚も、浩平に何かを考えさせようという見えない力でも働いているのではないかと思わせるようだった。
そういえば、目の前に時計があり、今時間を見てみると、実際の時間と針が反対に見えた。目をこすってもう一度見ると、正常だったのだが、今の話を聞かなければ、
――疲れてるんだな――
ということで済ませるだけだっただろう。
しかし、どう解釈すればいいのだろうか、浩平には理解できなかった。
それともう一つ気になるのは、千鶴が六時ちょうどで帰ったということである。約束の時間は六時、少しくらいはいつもなら待っているはずの千鶴が、急に帰ってしまうなど、想像もつかない。
「女性の方は、何かを思い出したように急に席を立ったとか、そういう感じはなかったですか?」
「いえ、そんなこともありませんでしたよ。普通にお支払いを終えて、帰られました」
千鶴は、何時だと思って帰ったのだろうか? ひょっとすると、六時をとっくに回っていると思ったのかも知れない。喫茶「アムール」の時間がおかしくなっていたのか、それとも、その日、浩平と千鶴を会わせてはいけないという何かの力が働いたというのだろうか。まったく狐につままれたような気分だった。
確かに、千鶴の様子から察すれば、千鶴の中の時間では、六時を過ぎていたことに間違いはないのだろう。そのことを今朝の電話での応対が示していた。
自分に非のないところを指摘されたという認識しかなければ、女性であれば、ヒステリックになっても仕方がない。それ以上言っても、責めてしまうことになるだけなので、却って逆効果だ。千鶴の側から調べることは、余計な刺激を与えるだけだ。したがって、店を訪ねるしかないと思っていた。それが正解だったかどうなのかは、今はまだハッキリとは分からないだろう。
浩平は、それ以上、女の子に何も聞けなくなった。コーヒーを一口含むと、
――あれ?
昨日と味が少し違っているのを感じた。それは、コーヒーの味が分かっているというよりも、自分の舌が昨日と微妙に違っているのではないかと思い、
――味の違いが苦さにある――
と感じると、コップに注がれたお冷を、二口ほど口の中に流し込んだ。