短編集46(過去作品)
少ない観客ではあったが、これだけの波状攻撃を見せられ、ゴール前にボールが上がれば盛り上がる。それでもあまりにもチャンスが多く、それをことごとく外してくれば、途中から耳に残るのは溜息ばかりであった。
歓声が溜息に変わる時、胸がゾクゾクしてくる。歓声でワクワクした後の溜息は、向かいのスタンドに吸い込まれてしまいそうに感じられるのだ。
この一ヶ月、サッカーの試合がテレビであるのを気にしながら、チャンネルを合わせてきた。キックオフの瞬間ズームアウトしてフィールド全体が映し出される瞬間と、試合終了のズームアウトの瞬間が一番印象に残っている。
試合中はボールを中心にカメラが追いかけているが、競技場で見ていると全体しか見えてこない。ボールに集中して見ようと思えば見れないこともないのだが、どうしても全体を中心に見てしまう。それはきっと競技場が次第に狭く感じられてくるからだろう。
特にこの試合、セットプレイはあまりない。攻撃側もカウンターから仕掛けても、すぐにゴール前のチャンスになる。
――一点が入れば、一気に大量得点になりそうだな――
達男の予感はまんざらでもないだろう。観客はきっと同じことを考えているはずだ。何かの予感を感じながらの応援というのは、違いが分かるものである。
少しずつ応援の音が小さくなってくる。その代わりスタンド全体がざわつき始めた。
――そろそろ点が入るのではないか――
と思わせるに十分な雰囲気である。
試合が始まって三十分が過ぎようとしていた。何度もゴールを脅かすが、ゴールネットを揺らすことはできない。相手ディフェンダーが必死の守りに阻まれて、最後の詰めが甘い。少し消化不良ではあったが、スタンドの観客の予感はある程度的中するようだ。それだけ試合に対しての目が肥えているのかも知れない。
それよりも、いつも同じ位置からフィールド全体を見渡していると、それなりの雰囲気が伝わるのだろう。ざわめきが少しずつ大きくなってくると、達男にもその興奮が伝わってくる。そう感じた瞬間だった。
ディフェンダーの隙をついて放たれたシュートがゴールマウスを揺らした。あっという間の出来事で、最初は何が起こったのか分からなかった。一瞬競技場が静寂に包まれ、そして大歓声が起こる。
大歓声はスタジアムを包んだ。試合が再開されても、しばしその余韻は残っていた。点数さえ入れば後は同じような怒涛の攻撃を見せても、今度はイライラすることはない。ハーフタイムまでに、さらに二点過点された。
――緊張の糸が切れると、ここまで点が入るものなんだな――
流れというのは怖いものだ。
テレビで野球を見ている時に、解説者が一番訴えているのが流れについてのことだった。確かに専門的な話も重要だが、試合の中で一番大切なのは流れだということを話している。チャンスを逃した時など、いくら一方的に勝っている試合であっても、ちょっとした緩慢なプレイが命取りになるということを切々と唱えていたものだ。
ハーフタイムの間にトイレに向った。
最初の三十分があれほど長く感じられたのに、残りの十五分はあっという間だった。得点が入るまでの緊張感というものが、途中で切れたり繋がったりしていた証拠かも知れない。緊張感がそれほど持続しないことは自分でも分かっていたし、緊張感が途切れる瞬間も分かっていたつもりだ。少なくとも最初の三十分間で、五回くらい緊張感が切れた気がしている。時間が長く感じられるのももっともである。
トイレから戻ると、同じ席に腰を掛けたが、先ほどまでと少し客の配置が違っている。観客が少し増えたような気がしたのは、途中から入場してきた人が多かったからだろう。試合に集中していたので、スタンドの気配に気付かなかった。さっきまで座っていた席のすぐそばに女性が座っていたが、お構いなしにさっきまで座っていた席に戻った。
女性が近くにいると、意識して席を移動する人がいるが、達男はそういうことはしない。席を移動するのは、変に女性を意識しすぎるからで、却って相手に失礼だと思うからだ。
まだハーフタイムが続いていたが、グラウンドを何気なく見ていた達男は、後ろから近づいてくる女性の気配を感じた。それが女性であることを振り向くこともないのに分かったのは、柑橘系の香りを感じたからだ。
「こんにちは。ご一緒に見ましょう」
積極的な女性もいるものだ。確かにスタジアムでもこちらのスタンドは客がまばらで、ほとんどが一人で観戦している。男性が圧倒的に多いのに、どうして彼女が達男を選んだのか、最初はそれが一番気になっていた。
一番近くだということは理由にならない。誰でもいいと思いたくないと感じたからで、自分が一番話しかけやすかったと思いまわりを眺めると、確かにその通りかも知れない。
年齢的に二十歳代は達男だけだろう。四十歳に近いのではないかと思える男性や、高校生くらいの人が多い。高校生は自分もサッカーをしているのだろう。色が黒く、いかにもスポーツマンタイプの雰囲気だ。
中年に近い男性は、手に持ったサッカー雑誌を見ている。きっと、プロリーグ元年からのファンで、にわかファンとは違い、真剣にサッカー好きなのかも知れない。そうでなければ、二部リーグの試合をしかもメインスタンドから離れたところで観戦するのだから、純粋にサッカーを楽しみたいと思っている人に違いない。プロリーグが結成された頃、ちょうど達男くらいの年齢ではなかったということが察知できる。
黙っているのをいいことに、彼女は横に座って、視線をグラウンドに向けている。なるべく平静を装っているつもりではいるが、明らかにその横顔に不思議そうな視線を浴びせているのは間違いない。それを分かっていて、彼女が達男を振り返りはしなかった。
――これはまずこちらを振り返ることはないな――
と見るや否や、達男の視線もグラウンドへと向った。ちょうど両チームの選手がグラウンドに姿を現し、まもなく後半戦が始まりそうな雰囲気だった。
「ピーッ」
ポジションについた選手が一斉に動く、後半戦の始まりだ。
前半戦の勢いはそのままだったが、またしても得点の入らない時間がやってきた。相手チームもハーフタイムで少し休憩して気分転換ができたのか、ディフェンスは前半と違って動きがいい。なかなか前半のように相手陣地に攻め込むことは難しいようだ。
一進一退の攻防が続く、後半十分過ぎから相手に攻め込まれるシーンも少しずつ増えてきたが、それでも、まだボールの支配率は圧倒的にこちらだった。
「なかなか攻めあぐねてますね」
彼女が口を開いた。その声から、緊張感を感じた。
「そうですね。嫌な時間帯っていうんですかね」
サッカー雑誌を見ていて時間帯の記事が載っているのを思い出した。試合には数回、嫌な時間帯というものがあるらしい。それは試合展開に関係なく、九十分という決まった時間帯の中で、動きが決まってくる時間帯らしい。疲れや時間配分を考えながらの気持ちの持ち方、そして緊張感の持続など、いろいろな要素があるが、それはきっと見ている観客にも分かる時間帯なのかも知れない。達男はその時が嫌な時間帯であることを感じていたのだ。
作品名:短編集46(過去作品) 作家名:森本晃次