短編集46(過去作品)
そんな時に立ち寄ったのが、喫茶「オルゴール」だった。
クラシックに虚しさと懐かしさを感じていた頃、オルゴールの音色をまた違った印象で聞いていた。
オルゴールを聴いていると、瞼の裏によみがえるすすきの穂でいっぱいの平原。そこにはただ広く、大きく広がった平原が見えるだけなのだが、それだけではない。
――気がつけば、何か願い事をしているように思う――
ジンクスというのを最近自分の中で感じ始めていた。別に信心深いわけではないのだが、ただ毎日同じことをしていて、それをしないと気持ち悪いという思いから生まれたジンクスだった。
いいことがあったから、その間はずっとそれを続けるというのも一つのジンクスだが、何もなくとも、続けることで期待を感じさせる何かがあるようだ。
最初は意識してしていことも、そのうちに無意識になる。それがジンクスというものではないだろうか。無意識だから、意識していないだけで誰でも同じことがあるはずだ。意識すればそれをジンクスと呼び、意識することで、そこに欲が出てくる。願い事もそういう欲の一つであろう。
喫茶「オルゴール」で佇んでいて、何か願い事をしている。毎回違うのだが、瞼に浮かぶ光景はいつも同じすすきの穂の光景である。
いつも同じ席に座り、同じ光景を見ている。確かにいつもと同じ光景がしっかりと瞼に写っているのだが、それと同時に瞼の裏ではすすきの穂が揺れている。
――異次元を見ているのかな――
時々突飛な発想をして、思わず苦笑してしまう伸江だが、その時は苦笑というより、少し淫靡な笑みだった。きっと他の人が見れば気持ち悪く見えるだろう。
淫靡な自分が本当の自分である。
――冷静な自分は似合わない――
と、すすきの穂を瞼の裏で見ている自分が呟いている。
利一と別れの話をしていて気がつけば流れていたオルゴール。
――気がついていない時でも、無意識にすすきの穂をイメージしていたのかも知れない――
そう感じると、最初に見せた利一が怯えていた理由も分かる。
――それまでの自分と、違う自分を彼は見たに違いないわ――
それは、どこか淫靡な伸江、まだ他の人に見せたことがないはずの本当の伸江、
――だが、本当に今まで誰にも見せたことはないのだろうか――
その思いも正直にはある。喫茶「オルゴール」にいる時、ひょっとすれば淫靡な自分が顔を出しているのかも知れない。
だが、きっと誰かと話をしていたり、人の視線を感じた時には現れないのだろう。淫靡な時の伸江は、人の視線に敏感なのだ。
だが、それも見つめ合っている時はそうではないようだ。利一と真剣な話をしていて、お互いに真剣な顔で向かい合っていたはずの時に、利一は怯えを感じた。それはまさしく伸江の淫靡な雰囲気にだったはずだ。
前の夫の時もそうだったのかも知れない。淫靡な自分が表に出てきて、一瞬怯えを感じたことだろう。それを普段の伸江でいる時に、二度と淫靡な伸江が現れないようにするための手段が暴力だったのかも知れない。
――夫の私を見る目、思い出せそうで思い出せない――
まるで悪夢だと思っていた毎日、思い出せないのは、思い出したくないというが自分のことだけではないように思う。間違いなく、存在していた毎日だったのだ。
鏡を見ている時、伸江は自分で怖くなる時がある。
淫靡な自分がそこにはいて、こちらを見てにやけているのだ。
途端にゾクゾクし、電流が身体中を走りぬけたように怯えを感じる。目を逸らそうとしても鏡から目を逸らすことができない。
――ああ、許して――
すっかり消えうせてしまったはずの、夫から受けた傷跡が疼くようである。それは痛みではなく、むず痒さ。身体の奥から熱いものが溢れてくるようで、自分が女であったことを思い出すものでもあった。
――まさか、そんな――
あの痛みを二度と味わいたくないと思っていたはずなのに、どうして身体が覚えているのか、伸江には分からない。ハッキリと言えるのは、心に残ったトラウマと、身体に残ったトラウマとは、切り離して考えようと無意識にしていたということである。そのことを鏡を見るたびに思い起こさせる。
利一と別れて一人ぼっちになってしまった伸江、最初はサッパリとしていたが、心と身体に空いた穴を埋めるまでには、かなりの時間が掛かるかも知れない。
一人が嫌いではない伸江だが、それは最初から一人でいる時と違い、それまで隙間のないほどにふれあいを感じていた男性を失ってから感じる一人というのは、かなりおもむきが違ってくる。
少なくとも鏡を見ていて淫靡な自分を感じるのは、普段の自分が一人でいることに満足しようと思っている時である。少しずつ無理をしていることを感じてくると、自分の中に生まれてくるストレスの存在に気付く。
――淫靡な私は、ストレスが生んだものではないかしら――
とさえ思えたが、最初から自分の中にいて、普段は表に出ないだけではないかとも感じている。むしろ、ストレスが生んだのではなく、ストレスによって表に出ようとしている自分の潜在意識を司っている感覚ではないだろうか。
最近、自分ほど不幸な女はいないのではないかと感じることがある。元々悪い方へ考え始めると、とことん悪く考えてしまうくせがある伸江は、
――ノイローゼではないだろうか――
と感じることもある。
将来のことをそろそろ考えないといけないと思っている反面、悪い方に考え始めている伸江は、今が臆病の最盛期なのだ。
臆病になると、まわりを見ていて色が違って見える。すべてのものが黄色掛かって見えてくるが、黄色掛かった世界には気だるさを感じる。
夕方になると、すべてのものが黄色掛かって見えてくることがあったが、その時に感じた気だるさは、ある意味心地よさでもあった。だが、臆病な時に見える黄色掛かった光景に夕方の心地よい気だるさを感じることができない。
日が暮れて暗くなると、ネオンサインがやたらクッキリと見えてくる。それも臆病な時の特徴だった。
気だるさを感じる夕方から、夜の帳の下りた世界を歩いていると、
――身体が宙に浮くような軽さ――
を感じてくる。
それでも、想像の中のすすきの穂だけはいつも真っ白だ。喫茶店で見かけた絵に描かれているすすきの穂だって真っ白だったではないか。
あの白さに怯えを感じている。震え始めると震えを止めることは不可能で、自分の意志ではどうにもならない。
――あなた、許して――
心の底で訴え続ける。
夫の暴力が頻繁になってくると、伸江は、違う男性に気持ちも身体も委ねるようになっていた。それは大学時代の彼とも、夫とも違うタイプの人で、ただ大人しいのがとりえというだけだった。
まったく危険性のない男性だけを求めていた頃だった。なるべく夫に悟られないようにしようと考えれば考えるほど夫に分かってしまう。
夫は一度その男を影から垣間見たことがあるようだが、彼には何もしない。それどころか、すべての刃は伸江に向けられる。それが暴力を誘発していたのだ。
作品名:短編集46(過去作品) 作家名:森本晃次