短編集46(過去作品)
――もし、大学時代に付き合っていた彼がいなければ、結婚なんて考えなかったかも知れないわ――
そう、結婚など考えなければもっと永く、うまく付き合っていけたかも知れない。少なくとも彼からもらっている癒しの気持ちは、今の伸江には最高だからだ。それは結婚など考える必要のないもので、分かっていたはずなのに、結婚を考えてしまった自分を悔いていた。
「私たち別れましょう」
言い出したのは伸江だった。ある程度まで我慢して、これ以上我慢すると、自分が精神的に狂ってくると感じたからだ。精神的に狂ってくると、身体のバランスを失うのは分かっていた。癒しどころではなくなってしまう。
「別れる? どういうことだい? うまくやってきたじゃないか」
途端に怯えを隠せなくなってしまった利一。
――あれ?
こんなはずではなかった。相手は未練があるではないか。きっぱりと別れられると思っていた伸江には意外だった。利一はもっと大人だと思っていたからだ。
――大人? 大人ってなんだろう――
という思いが頭を掠める。歳を取っていれば大人なのだろうか。大人になればなるほど臆病になってくるということは自分でも分かってきていたはずだ。
――それなのに……
自分から言い出したはずの伸江がビックリしている。利一の行動に対しても当然のごとくであるが、それよりも臆病な相手を見た時の、自分の淡白さにビックリしているといっても過言ではない。
別れを考えている時、いつも頭の中にはオルゴールの音色が響いていた。大学時代別れを決意した時に響いていたのがクラシックであったように、今回はオルゴールの音色なのだ。
――私にとっての芸術は、私の中だけでしか分からない芸術になっているんだ――
芸術というものを自分なりに感じると、そういう結論になってしまう。
だが、怯えも最初だけだった。すぐに、
「そうか、だったら別れよう。君の気持ちも分かっていたよ」
先ほどのおびえがウソのようである。
――開き直りなのかしら――
と思えてくるが、
「君の気持ちも分かっていたよ」
というセリフを聞くと、開き直りというよりも、先に伸江の方から別れを切り出したことへの狼狽が、怯えに見えたのかも知れないと感じた。利一も最初から別れを意識していたに違いない。
確かに利一が自分から別れを切り出すなど、性格的な面から考えにくい。しっかりしているように見えるが、何でも最後に決めてきたのは伸江だったではないか。
相性がピッタリ合っていると思っていた。利一には伸江にないいいところがいっぱいある。何よりも、夢見ることを忘れてしまった伸江に、芸術的な趣味のある利一は輝いて見えた。
しかも一度やめている。その時のことを利一は詳しく話さないが、それだけに自分なりの挫折を味わったことを物語っている。県のコンクールで入選したのだからプロを目指そうと考えたとしてもそれは自然ではないだろうか。何も言わない利一は、それだけ自分の中で燃えるものがあったに違いない。
「君に離婚暦があるなんて、信じられないな」
利一が最初に伸江を抱いた時に言っていた。
どちらからともなく、抱き合う気分になったのだが、その日はお互いに気持ちが最初から高ぶっていた。それを分かっていたからこそ、最初から最後まで自然だったし、あっという間に過ぎた一日だったと思っている。初めて大学時代の彼に抱かれた時もあっという間だったような気がしたが、その時とは気分的に随分と違ったものがあった。
――最後に何も残らなかった一日――
それが利一から最初に抱かれた日だった。自分の中に感想はあるのだろうが、すべて心の奥に封印し、表に出さないようにしていたように思う。しいて言えば、
――自分の気持ちはすべて彼に、彼の気持ちはすべて自分が受け止めたんだ――
という満足感が残っているだけだ。それが彼を好きになった最大の理由だった。
その時の二人に怯えなどない。前ばかりを向いていたという意識もなく、ただお互いをじっと見つめ合っていただけだ。
――見つめ合っているだけで満足――
余計なことを考えるのは、時間の無駄である。
そこまで淡白な考えを持っていなかっただろうが、後から思い出すと、その時自分が淡白だったように思えてならない。
伸江は、その時よりも後から考えると自分で思っていたよりもしっかりしていることが多い。自分では情に流されやすいところがあると思っているが、思い返すと、その場その場は淡白だったりするのだ。もっとも、淡白でなければ後になってその時の心境を冷静に思い出すことなど不可能ではないだろうか。
芸術家である利一を見ていて分かったことは、彼は臆病であるということだ。
いつも何かに怯えていて、それを表に出そうとしている。ひょっとして、そんな自分をもう一人の自分に見せて、本当の自分を探ろうとしているのではないかと思えるほどだ。
伸江自身にも同じことが言える。
臆病な時の伸江は、誰かの視線を感じてビクついてしまう。ビクついてしまうから臆病になるのだろうが、そもそも臆病になる原因は、
――身体の中に臆病になる菌が住んでいるからで、それが心身を冒すことによって世界が狭まって見えることだ――
と思っている。
「臆病」という言葉、病という字が入っているではないか。決して外的要因によるものではなく、すべては自分の中にあるものが原因である。
そんな時、伸江はもう一人の自分を感じる。確かにもう一人の自分はそこにいるのだ。いつももう一人の自分に見つめられていて、臆病菌が暴れ始めた時に、初めてもう一人の自分の存在を感じる。
――もう一人の自分――
それは冷静という言葉をすべて引き受けている自分である。いつも無表情で、臆病な時にいつも気になって見てしまう鏡に写っている自分が、まさにもう一人の自分ではないだろうか。そしてその存在は他の人には決して分からない。
――自分のことも分からないのに、人のことが分かるはずもない――
と思っているが、当たり前である。いつもそのことを伸江は心の中で言い聞かせている。それを利一は知っていただろうか。
お互いにぎこちなくなってくると、どちらが別れを言い出すか、それだけだったのかも知れない。さすがに一瞬ビックリして、もう一人の自分の存在を見失ってしまったのか、利一の狼狽に却って伸江はその後ろに影として存在しているもう一人の利一を感じた。
きっと利一にもその時伸江の後ろにいたもう一人の伸江の存在に気付いたのかも知れない。
シーンと静まり返った喫茶店の一室で、二人だけの空気がその場を重くしていた。幸いにも他に客がいなかったので、雰囲気は変わらなかったが、我に返るとそこに流れていた音楽はなぜか、オルゴールだった。
――そういえば、別れの時には必ずクラシックの音楽が奏でられていたな――
クラシックのメロディの中に、どこか寂しさを感じるのはいつも別れを感じていたからだ。
――虚しさを懐かしさ――
それをクラシックのメロディには感じる。時には力強く、そして時には静かに……。抑揚が気持ちを高ぶらせることもある。クラシックとは、実に芸術的な印象を身体に刻み込ませてくれる。
作品名:短編集46(過去作品) 作家名:森本晃次