短編集46(過去作品)
芸術家の利一との間では、会話がなくとも一緒にいるだけで楽しい。元々あまり会話が得意ではなく、相手のそばにいるだけで満足感がある伸江にとって利一は理想の男性ではないだろうか。
――もう二度と結婚なんてしないわ――
という思いが脆くも崩れ始めていた。
――一緒にいるだけで気持ちが和む。ただそれだけでよかったはずなのに、どうして結婚を意識してしまったのだろう――
意識などしなければ、二人が別れるなどということはなかったかも知れない。
元々結婚という意識が強かったのは利一の方だった。どちらかというと二の足を踏んでいた伸江だったが、
――彼の気持ちに触れることが癒しに繋がり、ずっと一緒にいたいという思いを増幅させる――
さらには、初めて出会った時も、
――前から知り合いだったような気がする――
と感じたではないか。ひょっとして前の夫に似たところがあったのではないかという思いが頭の片隅をよぎり、それで二の足を踏む結果になったようにも感じる。もし、もう一度結婚しようと考えるのであれば、今でなければ考えることができないだろう。時間が経てば経つほど、女というのは臆病になっていくものなのだ……。
女性というのは、男に比べて淡白なのかも知れない。
我慢する時は限界まで我慢できるのだが、我慢ができなくなると、後は何があっても相手にしなくなってしまう。それは離婚の時に思い知った。それだけに女は時間が経ってしまうことを恐れる。自然と我慢している自分に気付いてくるからだ。
利一は芸術家である。女よりも自分を愛するタイプの男である。
――自分があって相手がある――
この考えが根底にあるのだ。
もちろん誰もが持っている感覚である。男であろうが、女であろうが、持っているもの。その考えが強すぎるのが芸術家というものではないだろうか。好きになった最初の理由は彼の中にそんな潔い思いを見つけたからだというのは、実に皮肉なことだった。
伸江にも潔さがあった、結婚したいという思いのない時は、あくまでも自分中心、癒し合える相手がいればそれでよかったのだ。だが、それだけでは我慢できなくなるのが女としての性、身体を重ねてしまっては、もうどうすることもできなくなっていた。
「身体の相性がいい人とは、心の相性がよくない。心の相性が合う人とは、身体の相性が合わないものだよ」
結婚前に一時期付き合った男との話の中で出てきた言葉だった。
その男とは、なるほど身体の相性は抜群だった。だが、相手が遊び人風で、軽い男だということを分かっていながら伸江は付き合っていた。
看護学校に入学してすぐくらいに付き合い始めた人だった。相手は大学生で、彼は三年生、年は二十歳を越えていた。
この頃の年齢の差というのは、実際よりも離れているように思え、たった三歳しか離れていないのに、かなり大人の男性のように感じた。特に大学生というのは憧れでもあった。歳も二十歳を越えていて、それだけで大人の男に見えたものだ。
それまで男性と付き合ったことのない伸江にとって、初めての男性。彼は言葉巧みに伸江の気持ちを高ぶらせた。
――癒し――
という言葉を実感したのも彼が最初だった。
二人にとっての癒しは、彼の趣味にあった。彼はクラシックを聴くのが好きで、大学の近くに馴染みの音楽喫茶を持っていたのだ。一人で行くことも多いと聞いていたが、デートの時はよく二人で行くことにしている。それが伸江には嬉しかった。
「ここは僕が大学に入学した時に最初に入った喫茶店でもあったんだ」
と言ってつれてきてくれた店は。目立たないところにあった。
――普通の喫茶店が好きな人にはまず気付くことはないだろう――
と感じるほどで、黒を基調とした壁や、扉を開けて見た店内も同じように黒が基調になっていた。
ソファーに座ると、それだけで睡魔が襲ってきそうなほどの贅沢な雰囲気に音響効果抜群で重低音のクラシックが響き渡る。ソファーには心地よいバイブレーションを感じ、曲を聴いているだけで、時間を忘れさせてくれる。
渋めのコーヒーもありがたかった。そこは相手のことを感じるのではなく、自分を見つめることができる場所である。伸江が
――自分があって、相手がある――
と考えるような一面を持った性格であることを知ったのも、その時が最初だった。
この店には、彼には内緒で、一人で何度か来たことがあった。別に内緒にする必要はなかったのだが、せっかく彼の憩いの場、自分も行っていることを言いたくなかった。
店内が暗いのも功を奏していた。お互いに本当の偶然で表で鉢合わせしない限り会うことはないはずだ。それが伸江の気持ちを少し大胆にした。
一人でクラシックを聴きながら佇んでいる時間が増えると、自分以外のものも自然と見えてくるように感じるから不思議だった。
彼のどこが好きなのか聞かれて、
――クラシックを楽しめるところが好きだ――
と答えることはできても、他には何もなかった。一人で佇んでいると、そのことを思い知らされる。それだけ淡白だったに違いない。男性というものを知らなかったとも言えるだろう。だが、そのおかげで傷つくこともなく別れることができた。
――別れってこんなに簡単なものなのだ――
と思うほどで、相手も簡単に納得していた。お互いにそれぞれ考えるところがあったに違いない。
それからしばらくは、男性を見ないようにしていた。それは自然な感覚だと思っていたが無理をしていたに違いない。それからもしばらくはクラシック喫茶には通った。もし、お互いに悔いを残す別れ方をしたのなら、思い出のあるクラシック喫茶には足を踏み入れることはないだろう。それだけ別れは自然だったのだ。
幸いにも彼に出会うことはなかった。別れてすぐは、
――バッタリ出会ったらどうしよう――
と思っていた。付き合っていた頃、内緒で来ていた頃とかなり精神的に違っている。
それでも、看護学校のカリキュラムが忙しくなると、なかなかゆっくりもできなくなっていった。彼とのこと、クラシック喫茶のことは、次第に思い出として記憶の奥深く封印されることになっていった……。
利一は、最初の彼と似たところがあった。
最初の彼が好きだったクラシック。これも立派な芸術である。
――私は芸術に造詣の深い人に惹かれるんだわ――
と感じた伸江は、どことなく似ている大学時代の彼と利一をダブらせていた。
大学時代は、別れを簡単に考えていたが、今はそんなことはない。付き合い始めるよりもむしろ別れる方が辛い。それは離婚でも経験したことだった。
気持ちの上での辛さは、それだけ自分が臆病になってきた証拠だと思っている。
「不思議よね。歳を取るにしたがって臆病になっていくんですもの」
と、友達が話していたのを思い出した。つい最近聞いたセリフだったのに、かなり前に聞いたような錯覚に陥ったのは、大学時代の彼と利一を自分の中でダブらせているからだろう。
利一に惹かれてくるようになると、今度は利一の方が一歩引いているように感じた。
直感だったので、気のせいかも知れないと思ったが、大学時代の彼と別れを決めた時の雰囲気に似てきたのだ。
作品名:短編集46(過去作品) 作家名:森本晃次